[泉松山法林寺の復興]

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 昭和二十年代前半の復興状況は第二章の通りであるが、この後半から同三十年代前半にかけての本堂復興は、昭和二十五年に東漸寺(成子町)、同二十六年に芳蘚寺(池町)、同二十六年に心造寺(紺屋町)、同二十九年に大聖寺(板屋町)、同三十年に万福寺(野口町)、同三十一年に善正寺(紺屋町)、同三十二年に常住院(名残町)、同三十三年に瑞生寺(東伊場町)の例がある。もっともこの現在地は移転している場合がある。
 
【法林寺】
 法林寺の戦災復興計画は、『法林寺戦災復興 第一期計画念仏修行道場檀信徒集会堂竣工届 第二期計画本堂建立建築状況報告書』(表紙墨書)によって、やや詳しく判明する。もっとも、前者の竣工届は墨書であるが、後者の報告書はカーボン複写式硬筆による記録である。両者共に昭和二十六年一月三十一日付で、後者の筆記記事によって名古屋管財局東海財務局にあてて提出されたものと思われる。
 
【吉沢純道】
 その第一期計画として、念仏修行道場である檀信徒集会堂を建設し、第二期計画として本堂を復興することであった。この計画と施行、及び宗教法人設立等は先述(第二章)の浜松信行社でも活躍した、前住の吉沢純道によるものであった。師の逝去(昭和五十九年六月十六日葬儀)後、そのままになっていた書斎など境内建物の解体により、平成十八年に文書が浜松市立中央図書館へ寄贈された。この文書によると、戦後すぐに復興計画が立てられ、第一期計画である念仏修行道場檀信徒集会堂が木造瓦葺きの一棟(建坪六十五坪五合)という規模で、昭和二十五年二月三日に起工され、その三月十三日には上棟の運びとなり、九月十五日には竣工を迎えた。この経費は六十万円である。竣工届の使用目的欄では伝道教化の道場を表明し、併せて檀信徒の家庭の幼児保育を掲げている点が注目される。
 また、第二期計画である本堂建立の建築状況報告書によれば、本堂は木造瓦葺き一棟(間口七間、奥行五間)の総檜破風造りであり、建築様式は大阪府河内長野市にある高野山真言宗寺院、檜尾山観心寺金堂(国宝)の様式を踏襲したものである(『新編史料編五』 口絵44)。
 
【西岡希一】
 この本堂建立の議題は昭和二十四年七月の檀徒総会で議決され、「檀信徒寄付総額金壱百参拾五万円を月掛弐ヶ年納入にて昭和二十四年九月より積立」することになった。起工式は同二十四年十二月二十八日、大工棟梁は浜松市上池川町に居住する西岡希一である。なお、建築確認通知書は同二十六年八月二十日付である。