[梵鐘供出と復活]

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 戦時中の商工省は各県単位に金属回収の事務所を設け、家庭内の金属製品を献納や強制的に買い上げた。それは聖戦完遂のための重火器や船舶・飛行機の部品、工作機械の部品に供された。また、遠州大念仏の仏具であり、楽器でもある双盤さえもが、例外ではなかった(『浜北市史』通史 下巻)。
 
【梵鐘】
 寺院の場合は特に梵鐘がその対象である。梵鐘が山門を出るときは出征軍人並みの扱いを受けた。浄土真宗東本願寺派松江山芳蘚寺の梵鐘は昭和十八年に供出されたままであり、臨済宗妙心寺派冨士山東光寺(坪井町)では梵鐘復活はならず、鐘楼を戦没兵士のために改装して位牌堂に転用した時期もあった。
 
【光福寺】
 戦災寺院の復興の第一は本堂再建であったが、戦災を免れた寺院での願望の一つが、失われた梵鐘を再び鐘楼に迎えることである。浅田の真宗高田派の朝田山光福寺においては梵鐘復活運動が結実した(『浜松民報』昭和二十九年九月十八日付、『新編史料編五』 四宗教 史料35)。梵鐘を復活する例はすでに本堂が存在しており、住職の願望、檀家の総意、これを裏付ける地域社会の経済力などに基づいて実現するという幸福な場合である。光福寺の梵鐘は著名な鋳金家に依頼したという事情もあり、松菱百貨店でその披露が果たされ、稚児行列を組んでの入山となるという企画であった。これは浜松市域の仏教界の復興を示す一例であろう。