[仏教婦人会の設立と活動]

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【仏教婦人会】
 昭和三十四年に入ると市内各寺院を単位とする仏教婦人会の結成があった。同年四月七日付(灌仏会の前日)で、「今日のわが国の世相は、じつとこのまま捨ててはおかれぬような気がしてなりませぬ」として、市内四十二の寺院の檀信徒による発起人によって、浜松市仏教婦人会結成の呼び掛けがなされた。
 さらに同年十一月には、争いのない家庭・職場・地域社会をつくる自覚を強調した静岡県レベルの仏教婦人会が結成されるに至った。仏教婦人会結成への動機には、広く社会の風潮を危惧するところにあった。その一つには青少年問題、二つには新宗教による仏教攻勢に対応する組織強化である。他方、浜松市内の寺院ごとにつくられた仏教婦人会は、昭和三十五年四月七日、連合の結成大会を開くに至った。浜松仏教婦人会会長には中村春子(信愛高等学校長)が就任した。ここに至る市内の仏教婦人会の実践例としては次のものが挙げられよう。
 
【普済寺】
 昭和三十四年三月、曹洞宗宗門の歴史と格式を誇る広沢山普済寺では、住職鶴見密禅が檀信徒の女性たちに向けて、仏教婦人会結成を呼びかけた。その趣意書には「仏教の何宗を問はず全体の仏教が一体と成つて活動する為め」(全一仏教運動)と仏教婦人会を位置付け、「婦人は特に苦しみなやみの多いものです。それに仏教を今後発展させるのも婦人です」と期待している。釈尊二千五百年祭に相当することを期して春彼岸会執行後に結成式を挙行するというものである。
 
【法林寺】
 この時点以後における仏教婦人会としての日常活動の一端は、法林寺住職吉沢純道の諸種の手控えによって判明する。法林寺の場合(昭和三十四年十月二十四日発会)、仏教婦人会規約中の事業として掲げられているのは、月例集会・読経念仏の習練・仏教解説・読書会・講演・研究・寺社見学などである。その活動日誌には、毎回の出席者は十五名から二十名を数え、法談・茶話会において夫婦・親子・師檀などについて話し合われたことが記されている。また吉沢純道は出席者に向けて謄写版印刷をしたテキスト(「愚一上人一息仮名法語」等)を配布し講義をしていた。また、昭和四十五年五月に執行された法然上人忌日(御忌会)には、京都清水寺の大西良慶を招いて法要を営んでいる。他方、吉沢純道は浜松信行社だけが僧侶の入会を認めた時の四人の内の一人(理事)であり、二葉会の推進者でもあった(大野木吉兵衛「地方産業史の一こま―浜松信行社の沿革―」『浜松短期大学研究論集』第十四号、昭和四十七年刊)。