【中村雄次 大雄庵】
浜松市域の人々が地元の寺社の祭礼を通して宗教的因縁として日常生活に受け入れ、四季の習俗としている例は多かろう。例えば天神町の中村雄次の懐旧談には、黄檗宗妙見山大雄庵の寺施餓鬼に奏せられる「チンチンドンドン」の音と露店のにぎわい、蒲神明宮の秋祭り(ごしんさま)、鴨江観音の彼岸会(おかもえ)へ出かけたことなどを挙げている(白土彦編『大雄菴』、平成二十年五月刊)。
右に並ぶ仏教習俗として、大念仏踊りを迎え入れる盆供養がある。かつて戦時中には双盤の供出や、徴兵により大念仏の執行は不可能に陥ったが、戦後の復興は昭和二十一年、上島組が早くも着手した。
【遠州大念仏】
この歴史的経過から現在に至る大念仏の変遷について、戦後の市街化に伴う地域の、地域住民の大念仏に関する認識の変化の状況を宗教社会学の立場から分析し、将来展望を含めた立論を果たした著作がある。それは河野潤論文「遠州大念仏―浜松市における現状―」(田丸徳善編『都市社会の宗教』所収 昭和五十六年、東京大学宗教学研究室刊)である。これとともに「戦後の遠州大念仏」36(『新編史料編五』 四宗教 史料37)をも参照しつつ、戦後の遠州大念仏の復活について記すことにする。
【遠州大念仏団規約】
盆行事として「修行」(執行)される大念仏は、近世以来連綿として継承されてきた習俗であるが、昭和五年に遠州地方の大念仏が大念仏団として組織化されて「遠州大念仏団規約」が制定され、戦後の昭和三十年七月一日に改正された。右の「遠州大念仏団規約」のほかに、支部長・総代・組頭あてに発した令達は、「浜松市内に於ける大念仏の修行に就て」、「遠州大念仏修行に関する取締注意事項」、「遠州大念仏団地区別組織表」、「役員選出区分表」などである。
昭和三十二年七月現在で遠州大念仏が施行されている地域は、右の「地区別組織表」によれば、支部名(浜松・積志・小野口・浜北・北・引佐・磐田)の下に支部の区域があり、その下に総代区、さらにその下に組合の地区名が列記されている。この備考によって「本表作成時、一市三郡二十ケ町村七十六組」が遠州大念仏団を構成していることが判明する。
「遠州大念仏団規約」では、遠州大念仏の習俗が三方原合戦の戦死者供養に由来することから、本部を犀ケ崖宗円堂に置き(第二条)、目的達成のための事業を掲げている(第四条)。その中に「開祖並に三方原役戦歿者及各戦役の戦歿者の慰霊祭を行う事」という項目がある。「各戦役の戦歿者」とは近代以後の日本が遂行した戦争における内地外地での犠牲者すべてを指し、慰霊することを宣言したものであろう。
この規約の付則第二条によると、慰霊祭は毎年七月十五日に執行し、本部・支部の役員・総代が主催するもので、当日の「大念仏の修行」には各支部ごとの年番制(一組)による参加が決められている。また、七月十五日とは概ね旧浜松市内の盆に相当するわけで、「遠州大念仏修行に関する取締注意事項」の第三項によれば、「新暦・月遅・旧暦等組の所在地における習慣による盆三日」と決めているので、宗円堂での修行は旧浜松市内の習慣による規約であろう。
各支部各組の修行が順調に推移していたわけではないことは、「取締注意事項」が全十八項も制定されている点から推測されるが、団の規律を侵す行動も見られた。無届けで浜松「市内に潜入し新盆の家を門付け修行し、盆飾の優劣によって格を付けて御布施を要求する」事態が発生していることを憂えている。
【無形文化財 遠州大念仏保存会】
遠州大念仏は昭和二十一年の復興後、ますます盛んになり、同四十七年、浜松市無形文化財指定となったのを契機に、団の名称を「無形文化財遠州大念仏保存会」と改め、同五十四年七月には遠州大念仏保存会は結成五十周年を迎えた。翌五十五年には十三支部七十八組の大念仏修行が執行された。しかし、地域や職業の変貌によって、地域住民の受容の仕方に変化が現れた。供養意識が薄れ、信仰問題も関係する場合もあり、念仏辞退を申し出る場合もある。要するに地域住民から担い手が減少し、都市化の進行による地域のまとまりが希薄になるなど、大念仏が行事としては成立しなくなる可能性が指摘されている。他方、自治体による無形文化財の指定が進むのも、右の社会状況と無関係では無かろう。
なお、昭和三十二年には滝沢の放歌踊と呉松の大念仏が静岡県無形文化財に指定された。