海外視察

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【本田宗一郎 河島喜好 川上源一 鈴木俊三 河合滋 河村匡庸】
 戦後しばらくたつと、企業の経営者はこぞって欧米視察を行うようになった。浜松の有力企業の経営者も次々に視察旅行に出掛けた。本田技研工業の本田宗一郎社長は昭和二十七年十一月にアメリカを視察し、技師の河島喜好(後に二代目の社長に就任)はオートバイの先進地の西ドイツを視察している。日本楽器の川上源一社長は昭和二十八年七月から九月まで欧米各国を視察、鈴木自動車工業の鈴木俊三社長は昭和三十年に、当時先進工業国であった欧米の視察に旅立ち、アメリカでは経営管理や生産性について、欧州各国ではモペットの需要と技術について視察している。河合楽器の河合滋社長は昭和三十三年から三十四年にかけて市場調査のために東南アジア各国と南北アメリカを、帝国製帽の河村匡庸社長と田島工場長も欧州各国を視察している。
 本田技研工業は、昭和二十七年九月にドリーム号を月一千台、カブ号を月五千台生産していたものの、需要に応じ切れない状態であった。そこで、アメリカ、ドイツ、スイスから世界一流の工作機械を導入し、拡大する需要に対応することになった。本田宗一郎は渡米に際して、その意義を「今回の渡米が直接弊社の工作技術を飛躍させるのみならず今までに渡米した人が齎さなかつた技術の革命を吾が国の工作技術の上に加へることが私の自負であり喜びであります。」(『ホンダ月報』No.15、『新編史料編五』 五産業 史料64)と述べている。世界市場への進出を目指していた本田技研工業にとって、このアメリカ視察は外国からの工作機械の導入にとどまらず、世界へ飛躍していく契機となったのである。
 
【大量生産体制】
 日本楽器の川上源一は、アメリカでは流れ作業による大量生産を行っていたウーリッツァーとガルブランセンのピアノ工場を、ヨーロッパでは、西ドイツのスタインウェイとベヒシュタインの工場、フランスのプレイエルとガボーの工場をそれぞれ見学した。この視察の回顧談の中で、川上源一は「日本へ帰って来て、これらの視察結果に基づき、いろいろと今後の方策について考えた。あのレンナー工場のように、大量生産化の方向を採らない限り、輸出商品としての競争力はないから、技術陣を思いきり強化、さらに、デザインの面でも全部改善の必要があるし、音楽普及の面でも根本的に考え方を変えなければならない。とにかく、何から何まで全部新しくやりなおして世界的な視野ですべての準備をしない限り、日本楽器の将来はない―というのがその時の私のはっきりした結論であった」(『社史』)と語っている。これを契機に日本楽器は楽器の大量生産体制を確立し、さらに事業の多角化を積極的に展開していった。