[東洋紡績浜松工場の再建]

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 浜松地域における紡績業は、遠州紡績株式会社(明治十七年操業開始)や浜松紡績株式会社(大正七年操業開始)といった地場資本によって経営が試みられたものの、いずれも長続きせず短命に終わっている。その後、遠州綿織物産地を形成する上で、紡績部門は東洋紡績、鐘淵紡績、日清紡績、富士紡績、近藤紡績、東綿紡績などの外来型企業によって担われた。
 
【東洋紡績浜松工場 東海一の模範工場】
 もともと東洋紡績の浜松地域への進出は、大正九年(一九二〇)に浜松紡績株式会社を買収したところに始まる。東洋紡績浜松工場は昭和二年(一九二七)段階で精紡機四万二千五百錘、撚糸機七千百余錘、織機一千三百余台の大工場であった。しかし、昭和二十年六月十八日の戦災により工場・付属建物を全焼した。昭和二十五年六月二十七日、GHQによる日本の紡績設備に関する四百万錘制限が解除され、紡績設備の増設や操業が自由となった。これを受け東洋紡績は戦後の紡績工場の再出発に当たり、休止状態になっていた浜松工場を復元することになった。昭和二十七年十月には精紡機七万四百錘で全運転に入り、東海一の模範工場となった。工場は鋸屋根平屋、地下ダクト式温湿度装置、電源も地下ケーブルとし、照明はすべて蛍光灯、工場内はカラーダイナミックスを採用し、最先端の設備を誇った。東洋紡の社史である『百年史 東洋紡』には、浜松工場が「戦後における当社復興のシンボルでもあった」と記されている。
 
【成和第一産業 東洋サイジング 浜松整反所】
 しかし、戦時中に導入された綿業リンク制(輸出用織物の生産は紡績会社の責任で実施するという制度)は戦後も異なる趣旨で維持され、繊維産業の二重構造を生み出した。外来型の大手紡績会社を頂点として、系列の産元を経由して中小の機屋と賃織り契約を結ぶという垂直的分業構造が形成された。東洋紡績の場合、浜松における代表的な産元は成和第一産業(株)で、さらに賃織りに関連した東洋紡績の関係会社として東洋サイジングが昭和二十六年設立、賃織先の綿布の検反、包装、出荷などを行う浜松整反所が昭和三十三年に設立され、浜松における賃織が拡大していった。