鈴木式織機が戦後オートバイ生産を開始したきっかけは、『40年史』(鈴木自動車工業株式会社)によると「26年の晩秋の1日、取締役・鈴木俊三は好きな道の魚釣の帰途、フト一つの着想が脳裡に浮かんだ。それは自転車にエンジンをつけたらどうかということであつた。」とのことである。このような発想に基づき、早速試作に移り、昭和二十七年一月までに試作車を完成させた。これを事業化する上で社内では反対意見も多くあったが、実際に踏み切ることになった。それが同年に販売されたパワーフリー号であった。このような決断に至った理由は繊維業界の不安定さがあり、長い間、総合織機メーカーとしての歴史を築き上げてきた鈴木式織機にとっては一大転換であったことには間違いない。織機からオートバイへの転換は生産技術の違いや作業工程の再編を伴うものの、鈴木式織機では比較的スムーズに進んだ。この背景には、鋳物技術などの先行技術が転用されたことと、戦前から自動車の試作を行っていたこと、昭和二十四年に発生した大争議が終結し、従業員の会社に対するロイヤリティが強まっていたことなどが挙げられる。
【アトム号 パワーフリー号 ダイヤモンドフリー号】
鈴木式織機が開発した最初の自転車補助エンジンは、昭和二十七年一月に試作されたアトム号であったが、このアトム号は2サイクル30cc、出力0.2馬力で、馬力不足であったため、改良が行われパワーフリー号として登場した。このフリー号の特長は、特許ダブル・スプロケット・ホイル(足踏みからエンジンへ、エンジンから足踏みへの切り替えが自由な構造になっており、起動の容易性、操作の簡単さに優れていた)を採用し、二段変速装置を持っていた。その後、60ccクラスのエンジンを開発し、昭和二十八年三月にダイヤモンドフリー号として発売された。このフリー号は、同年七月に開催された富士登山レースで優勝し、ブランドの名声を高めるきっかけとなった。