一方、楽器メーカーであった日本楽器製造が、本格的にオートバイ生産に乗り出したのは昭和二十九年十二月のことであった。戦時経済下、日本楽器は軍用飛行機のプロペラ生産を行っていたが、敗戦とともに生産設備が賠償指定を受け管理保全されることになった。その後指定が解除されると、この工作機械を、疎開先の佐久良工場から、浜北町中条(今の浜北区中条・大東機工株式会社の跡地を買収)の浜名工場に移すことになった。これらの機械を使って何を生産すべきか、日本楽器製造の『社史』によると、当時様々な検討が行われ、最終的にオートバイ生産の結論を出し、楽器とは全く異なる分野への進出に踏み切った。
【赤とんぼ 小池岩太郎 GKグループ】
日本楽器が、オートバイ生産という全く新しい分野へ進出したのには、様々な理由が考えられる。第一に、より直接的な理由としては、敗戦に伴い遊休化していた生産設備を有効に活用する必要があった。第二に、楽器産業の将来性についての問題点である。楽器は、家電製品や車のように更新需要がある製品ではなく、一度購入すると半永久的に利用できる製品である。また主要原料である木材の入手が困難になりつつあり、価格の上昇も予想された。第三に、蓄積されてきた生産技術の活用が可能であった。一見すると生産技術の連続性が切断されているように見えるが、日本楽器は、戦前、楽器生産で培ってきた木材加工技術を生かし木製プロペラの製造を行い、さらに金属プロペラの製造に転換してきた。つまり、軍需産業への移行の中で鉄を加工する技術を身に付けてきたのである。従って、生産技術といった側面から見ると、全く異質な分野への進出とは言い難い。日本楽器は、昭和三十年二月十一日ヤマハYA1型125ccを完成させた。これが、世に言う「赤とんぼ」第一号であった。日本楽器においても、短期間にオートバイ生産に成功し得たのは、①富士登山オートレースと浅間高原耐久ロードレースで上位を独占したこと、②デザインを東京芸大の小池岩太郎助教授が率いるGKグループに委託し、色彩やデザインが斬新なオートバイを生み出したこと、③社長の川上源一の強力なリーダーシップ、④三十社以上の協力・下請企業の存在などがあったためである(表3-18参照)。