【遠州織物 ガチャ万時代 生産調整】
戦後の物不足と朝鮮戦争特需を背景に、遠州織物業界は息を吹き返し、さらに、いわゆる〝ガチャ万時代〟が到来し、繊維業界は活況を呈した。しかし、昭和二十六年になると休戦会談が始まり、朝鮮戦争は小康状態になった。その結果、繊維業界はたちまち不況に陥り、二十七年三月から紡績業は四割の操業短縮を実施せざるを得なくなった。これに対し、繊維業界は原料高・製品安にならぬよう政府に働き掛けた。この対策として二十七年八月、政府は特定中小企業の安定に関する臨時措置法を施行した。これにより遠州織物業界も、各組合ごとに調整組合を併設し生産調整を行った。
【繊維工業設備臨時措置法】
さらに、昭和三十一年になると繊維工業設備臨時措置法が施行され、遠州織物工業協同組合においても二百六十九工場、四百三十二・二台の広幅織機が三十二年五月に買上処理(昭和三十一年度分)された。昭和三十二年度は百四十工場、二百三十二台、三十三年度と三十四年度は二年合わせて二百五十二工場、千八百台が対象となった。昭和三十三年になると、この買上処理に加えて操業の五割短縮が強行された。
【構造不況】
遠州織物産地はガチャ万から転じて構造不況に突入していった。綿スフ織布業者にとって織工賃が低下することは収入の減少を意味した。このため乾燥代、梱包代、糊代などを差し引くと織工賃を割り込む事態が生じてきた。さらに、紡績会社や商社の織工賃の未払いも起きてきた。