ヤマハ発動機株式会社が設立されたのは、「赤とんぼ」の生産が軌道に乗った昭和三十年七月一日のことで、日本楽器からの分離独立であった。ヤマハ発動機のオートバイは国内外のオートレースで次々に優勝することによって、その技術の優秀さを証明すると同時に、オートバイメーカーとしてのヤマハ・ブランドを確立していった。会社設立当時の資本金は三千万円であったが、二年後の三十二年には一億円に増資され、短期間に急成長したことが分かる。その後、ヤマハ発動機はオートバイだけでなくボートや船外機の生産にも乗り出していった。昭和三十三年、ガラス繊維によって強化されたプラスチック素材であるFRPの研究に着手した。この素材は、軽さと強さを兼ね備えているため様々な製品の加工生産が可能であった。昭和三十四年にはボートの試作を行い、翌三十五年には日本初のFRPの小型で高速のボートとカタマラン型(双胴船)のボートを発売した。このようにしてヤマハ発動機はオートバイ生産を軸にして多角化へ乗り出していった。なお、ボート事業の初期においては日本楽器が担当、後にヤマハ発動機に移管した。
昭和二十年代の後半、浜松地域では三十を超すオートバイメーカーが出現した。しかし、昭和二十九年には、朝鮮特需も終息し、一転して金融引締政策がとられた。このため多くの企業は資金難に陥り、不況感が強まった。浜松地域に出現したオートバイメーカーも不況の波に洗われ、多くのメーカーは部品メーカーに転身したり、本業(織機や機械)に回帰したり、倒産していった。その結果、昭和三十四年三月の時点で浜松地方に残ったオートバイメーカーは本田技研工業浜松製作所、鈴木自動車工業、ヤマハ発動機、丸正自動車製造、ロケット商会、山王自動車工業(旧ヤマト商会)の六社となった。このような状況のなか、鈴木自動車工業とヤマハ発動機は本田技研工業と並んで日本の三大オートバイメーカーとなっていった。
鈴木自動車工業とヤマハ発動機の二大メーカーのオートバイ生産の開始は、産業都市浜松の工業発展の特徴の一つの表れと言っていいのではないか。浜松の明治以来の産業の発展には三つの特徴がある。第一は、地域内にある資本、労働、資源の活用を通じて産業を勃興させるという内発型の発展をしてきたことである。第二は複数の産業が相互に関連を持ちながら併存し、いわゆる複合型の産業発展をしてきたことである。第三は、既存の工業が時代の変化とともに、新たな工業を生み出し、継続的に発展するということである。スズキとヤマハは、この三番目の特徴を代表する事例である。この二大メーカーの転身には連続性と断絶性がある。連続性には、既存の機械や設備の活用と先行の生産技術である鋳造技術や金属加工技術の転用がある。他方、その断絶性においては、衰退産業から成長産業への転身という先見性がある。産業のライフサイクル論によれば「一つの産業が栄えている期間はたかだか三十年」と言われているが、浜松地域の産業発展の特徴は転身や脱本業化を図りながら、時代の変化にフレキシブルに対応しつつ、継続的に発展するところにある。スズキとヤマハは、この特徴を持つ代表的な企業である。
表3-18 ヤマハ発動機株式会社の協力・下請工場(昭和32年当時)
出典:『遠州新聞』昭和32年8月23日付より作成
工場名 | 所在地 | 工場名 | 所在地 |
渥美工業KK | 浜松市高林町 | 東洋精器KK | 浜松市東田町 |
(有)有川鉄工所 | 浜松市向宿町 | (有)永田鉄工所 | 豊橋市花田町 |
(資)石川鉄工所 | 浜松市砂山町 | 日工産業KK | 豊橋市北島町 |
石井工業KK | 浜松市助信町 | 西田鉄工所 | 浜松市中島町 |
(資)岡本製作所 | 浜松市中島町 | (有)平野工業所 | 磐田郡豊田村 |
大村自転車商会 | 浜松市天王町 | 不二化学工業KK | 浜松市佐藤町 |
K.K.勝山金属塗装工業所 | 浜松市上池川町 | 丸山塗装工業所 | 浜松市向宿町 |
京浜金属工業KK | 浜松市野口町 | (有)三河屋鍍金工場 | 浜松市野口町 |
(資)小林鉄工所中島工場 | 浜松市中島町 | 美甘製作所 | 磐田市見付 |
㏍桜井製作所 | 浜松市新津町 | 三星精密工業所 | 浜松市寺島町 |
(資)サクラ鍍金工業所 | 浜松市助信町 | 山崎鉄工所 | 浜松市浅田町 |
栄ゴム工業KK | 浜松市天竜川町 | 大和工業KK | 浜松市野口町 |
城北機業KK | 浜松市元目町 | (株)富士製作所 | 浜松市龍禅寺町 |
(株)鈴木鉄工所 | 浜松市中島町 | 藤倉ゴム工業(株) | 東京都品川区五反田 |
鈴正鉄工所 | 浜松市中島町 | (有)東陽鉄工所 | 掛川市 |
大洋製作所 | 浜松市龍禅寺町 | 日立製作所 |