明治以降三方原台地に入植した人たちはなんとかして米を収穫したいと考えてきた。しかし、幾度となく計画された用水は三方原台地を流れることはなかった。大正末期になって三方原村の有力者は深さ約八メートルほどの井戸を掘り、発動機を使って揚水に成功し、水田を開いたが、水持ちが悪いためわずかな収穫しか得られなかった。昭和五、六年ごろからはモーターによって井戸水を揚水して水田にする農家が増えてきた。
【三方原開拓建設事業 三方原の水田化】
戦後になると、主に軍用地となっていた三方原台地一帯で国営の三方原開拓建設事業が始まったが、開田計画があったのは、三方原工区と西川工区のみでほかはなかった。このため開田計画から漏れた地区では井戸水を汲み上げて水田にする方法で水稲栽培をすることになった。浜松開拓(今の高丘地区)では昭和二十四年当時、三百六十五戸が四百二十町歩を開拓していたが、この年に初めて電力を利用して井戸水を汲み上げ、十五町九反の水田化に成功、かつては夢としか考えられなかった三方原の水田化が実現した。これに刺激を受けて中川工区(今の根洗町付近)や浜松開拓に隣接した萩の原でも揚水機による水稲栽培が行われるようになった。一方、三方原村では、明治から開拓が進んでいたいわゆる本村(ほんむら)でも畑を水田にする農家が増え、昭和二十九年には五十五町歩までになった。しかし、土地にやや高低差があり、そのため二、三畝ずつ区切り、周囲を高く囲むことが必要であった。また、二馬力のモーターで昼夜の区別なく揚水するので、この電気料金は農家経営に大きな負担となった。二十九年当時の電気料金は反あたり約三千円で、川や用水池から取水する平地の農家とは違った悩みがあった。本村での水稲栽培は昭和三十年代前半が最盛期であった。
【大型揚水機】
戦後に始まった国営の三方原開拓建設事業での地区別の計画開墾面積は第二章で示した表2-30の通りであるが、このうち計画開田面積は三方原工区が四百三十五町歩、西川工区が四十町歩であった。この開田のために、天竜川の水を利用することにし、浜名用水の幹線から水揚げ地の麁玉村の梔池(くちなしいけ)までの三千メートルの導水路は昭和二十三年八月に完成した。しかし、予算不足で水揚げポンプの購入は翌年となり、第一期の揚水工事が完成したのは昭和二十四年八月二十二日であった。これにより三方原台地では天竜川の水によって昭和二十五年から水田が開かれたが、まだ本格的なものではなかった。昭和二十七年になると地元民待望の大型揚水機(第一機場)が、同二十九年には第二機場と付帯工事が終わり、三方原・西川工区のほぼ全域に通水されて、ほとんどの家で稲作が可能となった。ただ、目標の四百七十五町歩には遠く及ばす、百町歩程度であった。しかし、夢にまで見たお米を収穫できる喜びが大きく、秋になると黄金の穂波が三方原・西川工区になびくようになった。