戦後、産業都市として復興した浜松は昭和三十三年には人口が三十一万人を突破するまでになった。これまでし尿とじん芥は市の周辺にある酸性土壌の開拓地の土壌改良や肥料として使われてきたが、環境衛生面で好ましくないとされ、また、農家は手軽な化学肥料を使うことが多くなって、市はし尿とじん芥の処理に頭を悩ませていた。そこで、浜松市は総工費約六千万円を投じて昭和三十三年三月から三方原台地の一角(初生町)にコンポスト(し尿じん芥高速堆肥化装置)を建設し、同年秋から試運転を開始、翌年の春から本格的な操業を開始した。この装置は全国では二番目の導入、規模は日本一であった。これは入口の直径四・五メートル、出口は三・五メートル、長さ二十三メートルの円筒の中へじん芥を入れ、さらにし尿をかけて回転、発酵させて堆肥を作るという装置であった。この装置は市内から一日に出されるし尿とじん芥約百四十トンの六割にあたるゴミ五十トン、し尿三十五トンを処理する能力を持っていた。
このコンポスト(塵芥堆肥)は、当時酸性土壌で悩まされていた三方原台地の農民からは大いに歓迎され、需要期には飛ぶようにさばけた。従来、堆肥づくりは個々の農家で行われ、原料となるじん芥も衛生業者からオート三輪一台分(約一トン)百五十円で購入し、さらに堆肥小屋をつくり製造していた。そのため農家経済にとっては、堆肥づくりがかなりの負担になっていたため、市がコンポストを製造し、トン当たり九百円で農家に専売することは、当初農民から大いに受け入れられた。しかし、昭和三十四年の七月ごろになると売れ行きが止まり、処理場にはコンポストが山積みされるようになった。というのは農民が市に堆肥の値下げを要求し不買行動に出たためである。値下げの陳情は ①コンポストは肥料効果が低い、②農作物価格が暴落し採算が合わない、といった理由からであった。市と農民は話し合いを繰り返し、最終的には両者の歩み寄りによりトン当たり六百五十円で合意し、不買騒動も一応の決着を見た。
図3-40 コンポスト工場