[和田―水窪線の建設]

699 ~ 700 / 900ページ
 天竜東三河特定地域総合開発計画では、道路関係として昭和二十七年以降二級国道となった旧県道飯田浜松線(浜松─二俣間)、同じく旧県道静岡浜松線(静岡―浜松間)の道路改良事業のほか、二俣水窪往還(秋葉街道)をさらに青崩峠を経て飯田まで結ぶ和田水窪線の道路改良事業などが取り上げられた。特に、和田水窪線は、進行しつつあった佐久間ダムの建設をはじめとする総合開発の一環として浜松から長野県への直通路を切り開こうというもので、二十四年に総合計画を先取りする形で運動が開始された。
 
【和田水窪線 促進期成同盟会 白倉川林道事業】
 和田水窪線の建設運動は、昭和二十四年浜松側から始まり、同年八月二十三日に坂田浜松市長を会長とする府県道路浜松磐田飯田線(和田水窪線)促進期成同盟会が結成され、中部横断道路の建設を念頭において本格的な運動が始まった。現地調査も行われたが、この運動は当初の目的とは違った形で、すなわち白倉川林道事業として実現することになった。同事業は昭和二十五年八月九日に水窪町で起工式が行われ、昭和三十年に水窪の中心地の小畑から二瀬まで、三十三年には渡元まで開通した。三十四年に国鉄バスが渡元(有本)まで乗り入れ、奥地の人々を喜ばせた。それ以後もさらに奥地への林道工事が行われた。