[利用客の動向と能力の限界]

703 ~ 704 / 900ページ
 奥山線では、電化とディーゼル化による新車両の導入を進める一方、表3-26の通り昭和二十七年に四つの停留場を新設、二十九年には一停留場の営業を再開して利用者の便に応えた。こうして、奥山線の利用者数は、二十六年度に二百六十万人を突破した。しかし、二十九年に二百七十万人台を記録して以後は減少傾向を示し、三十三年には二百二十万人台となった。既述のように、同年に奥山線の起点である東田町駅と二俣電車線の遠州浜松駅とが遠鉄浜松駅に統合され、バスの主要路線の始発駅としての役割を果たすようになると利用客も増加に転じ、三十五年度には二百八十五万人のピークを記録した。とはいえ、それ以降、二俣電車線の利用者数が一貫して伸びたのに対して、奥山線は再び減少に転じた。
 
表3-26 二俣電車線と奥山線の停留場新設・駅名変更・駅舎改築等
年月日二俣電車線奥山線
昭和26年 4月 1日北浜停留場新設
    8月 1日繭市場前駅を遠州八幡駅と改称
    11月 1日島之郷停留場を遠州曳馬停留場と改称
  27年 7月 5日北田町、幸町、追分の三停留場新設
    10月 1日豊岡停留場を新設
  28年 8月 1日旭町駅を新浜松駅と改称
    10月 5日遠州助信駅の駅舎新築
    12月15日遠州馬込駅の駅舎新築
  29年10月 1日岡地停留場の営業再開
  32年 9月15日元城駅の駅舎竣工
  33年 6月 1日遠鉄浜松駅が竣工
出典:『成人への足跡』遠州鉄道20年史より作成

 
【経営の悪化】
 車両や施設の近代化に多額の投資を行ったにもかかわらず、奥山線の輸送人員が頭打ち状態となった背景には、同路線が狭軌で輸送力にもスピードアップにも限界があったことが挙げられる。これに加えて、物価や人件費の増大もあり、これを運賃で十分補塡(ほてん)できなかったため、走れば走るほど赤字がかさむという状況が生まれていた。