[浜名港と豊浜運河]

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 浜名港の港湾調査の結果、港口としての今切口の固定化、その維持を目的とした導流堤や防潮堤の建設が必要となった。導流堤の工事は昭和二十五年から開始されたが、二十八年の十三号台風により莫大な被害を被ることになった。このため港湾整備の要望は一段と高まり、再度の調査を経て、港湾の実施計画が策定され、二十九年から工事が開始された。災害復旧工事は三十三年に完了したが、浜名港修築事業はその後も継続された。地元の期待は高まったが、結局、漂砂運動等の自然的悪条件を克服して水深を維持するなどの解決策が見付からず、当初の五千トン級の船の入港・接岸という大型港建設の夢は幻に終わった。
 一方、豊橋港を起点として梅田川をさかのぼって新所村を通り、入出村から浜名湖に入り、さらに雄踏町から堀留運河に沿って伊場に至る豊浜運河計画も戦中に続いて昭和二十九年ごろに再び注目を集めた。しかし、陸上交通の目覚ましい発達は、こうした計画を時代遅れなものとした。
 
【『浜松市総合調査報告書』】
 昭和三十三年に公刊された『浜松市総合調査報告書』は、浜名港について「苫小牧築港の先例はあるが莫大な経費にみあう経済効果を考えなければならない」とし、「陸主海従の交通計画を主とするために、港湾計画はまず舞坂(ママ)における漁港計画に重点をおいて促進することが適当」と結論付けた。しかし、浜松地域に大型港を建設する可能性は、その後も折に触れて追求されることになる。