[有線放送電話の開始と農村]

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【有線放送電話】
 有線放送は、ラジオの共同聴取あるいは農事放送のために僻(へき)地の農山村に設置されたが、昭和二十五、六年から簡単な送受器を付けた電話の機能を有する設備が現れるに及んで、農山村地域で歓迎されるようになった。三十一年からは農業協同組合が経営する施設については補助金が交付されるようになり、三十二年六月には有線放送電話に関する法律が制定され、許可制となった。
 
【都田農協】
 こうしたなか、浜松市では都田・滝沢・鷲沢の三町で都田農協が中心となって、新農村建設事業の一環として有線放送の計画(総工費約七百万円)を進めた。当時、滝沢・鷲沢両町内には戸数が約二百五十あったが、電話が通じていたのは滝沢小学校のみであった。工事は昭和三十四年新春早々から着手され、同年三月中旬には試験放送、四月一日から本放送を開始した。三町八百五十人の組合員中七百四十人が加入した。
 都田農協建物の一部を改造した放送室から五十回線の電話線で加入者を結び、放送のほか各加入者が自由に通話できる仕組みであった。農協からの農事指導、広報なども有線放送を通じて可能となり、地方の文化や産業に大きな影響を及ぼすことになった。