[復興した浜松の中心市街地]

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【商店街 浜松商店界連盟 七夕祭り 地球儀型のネオン塔 店舗照明コンクール】
 中心市街地にあったやみ市は昭和二十年代半ばにはほとんど消滅し、変わって二千六百円住宅を改装した商店街が再興された。鍛冶町の松菱と田町の棒屋がその中心となっていたが、有楽街や浜松座通り、千歳町・伝馬町・連尺町・神明町・肴町・板屋町、そして駅前の旭町、駅南の砂山町などに多くの商店が立ち並ぶようになった。これらの商店街をまとめていた浜松商店界連盟は昭和二十八年七月には第一回七夕祭りを実施した。このころになるときらびやかなネオンも灯り始めた。有楽街に大きな地球儀型のネオン塔が灯ったのは二十七年六月二十二日、あまりの明るさに「祝1000000$ネオン塔落成」の看板も出来た。そして翌年の九月十一日には有楽街の南入口にこれより豪華な孔雀型の大ネオン塔が出来た。そのほか、二十八年七月に鍛冶町御幸通りにはアーケードと紅白の棒ネオンがついた。これ以降、田町や連尺町、千歳町などにも続々とネオンが設置され、暗い電球の灯っていた街から不夜城の街に変わっていった。また、二十九年八月には店舗照明コンクールが実施された。
 
【マルサ呉服店】
 中心街のにぎわいにつれて、これまでの二千六百円住宅を改造した店舗に別れを告げ、本格的な店舗を新築する動きも活発になった。昭和三十年十月に連尺町に完成したマルサ呉服店は鉄筋三階建ての新店舗で、戦後の浜松の商店としては画期的な建物で話題となった。
 
【松菱百貨店 県下初のエスカレーター】
 松菱百貨店は昭和二十四年に全売場を再開し、同二十八年には増加する買物客のためにエレベーター一基を増設した。また、二十九年には七・八階を増築して売場面積は県下最大となった。さらに、三十一年には大増築が完成、県下初のエスカレーターが三階まで開通、物珍しさも手伝って連日大変なにぎわいとなった。
 
【映画館冷暖房完備】
 市内の映画館の冷房は昭和二十七年ごろから始まったようで、以後二十九年ごろまでにはほとんどの映画館が冷暖房完備となった。また、三十年ごろには中心繁華街の喫茶店も一斉に冷房装置を備え始めた。そのほとんどがヒートポンプ方式で、深さ六メートルぐらいの井戸水を使用していた。しかし、その後ビル工事や染色工場での地下水の大量汲み上げもあって、三十三年の夏には水枯れが深刻になってきた。このため、喫茶店では深さ二十五メートルまで井戸を掘り下げる工事を始めた。
 
【ファッションショー】
 昭和二十七、八年ごろからデパートや劇場、浜松市公会堂ホールを使って着物や浴衣、洋服のファッションショーが盛んに催されるようになった。どこも超満員の女性客で埋まっていた。これも戦後の窮乏期を脱し、世の中が落ち着きを見せ、市民のより高級な衣料品の購買意欲が向上し出したからである。この時期、大量の洋服生地を扱う店舗が市内に数多く開店した。

図3-58 浜松駅前の夜景

 
【映画館】
 昭和三十年の『浜松市勢要覧』によると、市内の映画館は十六、演劇館は一、パチンコ店は十四、スマートボール店は七、麻雀店は十九、玉突場は六、ダンスホールは一、そして、ローラースケート場は五を数えている。昭和三十五年の『浜松市勢要覧』では映画館は二十二、劇場は二となっていて、映画館の数は五年間に約一・四倍に増加している。当時の映画館のほとんどは中心部に立地しており、商店街と合わせて、中心市街地は戦前を凌駕するほどのにぎわいを見せるまでになった。
 
【ヒロポン 覚せい剤 特飲街 愚連隊 覚醒剤撲滅 市民総決起大会】
 中心繁華街の復興は一方では夜遊びをする若者を数多く生み出し、彼らの一部にはヒロポンという覚せい剤に手を出し、中毒患者になる者も出た。ヒロポンは軍の備蓄品であったが終戦直後に市場に一気に出回り、若者には覚せい剤として使われ、中毒患者は五十万人を超えた。そこで、政府は昭和二十六年に覚せい剤取締法を施行し、国内では同法により決められた研究・医療機関の治療等に用いるほかは一切の使用・所持が禁止された。これ以降、浜松でも密売が行われるようになった。二十七年の新春早々から市内で辻強盗・傷害・たかり事件などが相次いだが、これらは市の中心部、南部の特飲街(売春防止法施行まで売春婦を置いていた店が集まっていた街)、東部の花街、北部の料飲街を根城とする愚連隊の仕業と見られていた。彼らの九割方はヒロポン中毒に冒されていた(『新編史料編五』 七社会 史料 40)。昭和二十八年の浜松市警察署の調査では市内の常習者は百二十人、密売所は四十カ所に上っていた。翌年十月の新聞には、市内のヒロポン中毒患者は約六百四十名とあり、依然深刻な問題であったことが分かる。そして、同月四日には警察と市議会、市当局が音頭取りとなって県下初の覚醒剤撲滅市民総決起大会を開き、患者の長期収容所建設を決議している(『静岡新聞』昭和二十九年十月二日付)。