[依然続く住宅難]

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 昭和二十年代の後半から三十年代前半は朝鮮特需をきっかけとした綿織物、織機、楽器のほか、新興のオートバイ工業の発展が著しかった。それと関連して商業やサービス業の復興も見られた。これらにより、この時期の勤労者の収入は名目だけでなく、実質賃金の向上も目立ってきた。そして賃金の上昇につれて生活面における衣と食の分野ではほぼ戦前の水準に並ぶまでになってきたが、住の分野だけは問題が残っていた。住宅の建設には多額の資金が必要であり、庶民にはなかなか手が出せない状況が続いていた。これを受けて政府は昭和二十五年六月に住宅金融金庫をつくって住宅の建設を促すようになった。
 
【住宅難 市営住宅 住宅金融公庫】
 昭和二十六年になっても住宅難は続いており、持ち家の建設はもちろん、市営住宅への入居も待たされることが多かった。表3-32は二十五年から三十年までの市営住宅の申込者数、入居者数とその倍率を示したものである。これによると、木造住宅で平均約十八倍、鉄筋コンクリート造の住宅では約七倍の競争率に上っていた。住宅金融公庫からの建設資金借り入れも申込者が殺到し、当選すれば一坪当たり木造は二万二千円、モルタル防火建築は二万四千円借りられた(『新編史料編五』 七社会 史料38)。
 
表3-32 市営住宅申込状況
年次総数木造鉄筋コンクリート造ブロック造分譲住宅
申込
者数
入居
者数
倍率申込
者数
入居
者数
倍率申込
者数
入居
者数
倍率申込
者数
入居
者数
倍率申込
者数
入居
者数
倍率
昭和25年136613410.210957015.6271644.2------
26 133910213.110673035.6272723.8------
27 158313411.810296017.24644410.5---90303.0
28 17971849.814937519.9224366.2---80731.1
29 190416311.713696521.1267485.7---268505.4
30 14221648.79298011.63871624.2168290601.5
計  941188110.7698238018.418852806.716825282132.5
出典:『浜松市勢要覧』昭和30年版より作成
注:表中のブロック造とは、モルタル防火建築のこと。

 昭和三十年に市内で新築された住宅は八百四十一戸で、毎日二軒以上が新築されている勘定であった。しかし、三十一年九月五日号の『広報はままつ』によると、市内の不足住宅は約七千戸と推定されていた。このペースでいくと不足住宅の解消には約八年かかる計算であった。そこで市は県と連携して住宅建設に力を入れていった。浜松市南部の中田島砂丘付近での住宅建設は、昭和三十一年年度の三十戸を皮切りに三十二年度は七十戸、三十三年度は百五十一戸、三十四年度は百四十戸が建設され、ほかに県営住宅も建てられた。表3-33は昭和二十五年からの市営住宅(県営も含む)の建設状況を示したものである。
 
表3-33 公営住宅建設状況
年次総数
(A+B+C)
木造
(A)
鉄筋コンクリート造
(B)
ブロック造
(C)
分譲住宅
 県  市 総数 県  市  県  市  県  市  県  市 
昭和25年25134159257064----
26 -102102-3072----
27 -104104-6044---30
28 -111111-7536---73
29 24113137-652448---50
30 24104128-802416-8-60
31 20802040
32 128705840
33 521513395*19*56*35
出典:『浜松市勢要覧』昭和30年、34年、35年版、『浜松市統計』No.20より作成
注:*は中田島住宅団地の建物

 
【分譲住宅建設】
 浜松市の分譲住宅建設は昭和二十二年度には始まっていたが、『広報はままつ』の昭和二十八年八月十五日号では「建売住宅の希望者を募ります」の記事を載せている。それによると二十種類の建物設計図が準備されており、希望者は自分の希望する坪数の住宅を申し込むことになっている。場所は住吉町と蜆塚町で、建築戸数は四十戸であった。住吉町では一面の茶畑を切り開いて宅地としたが、これは今の聖隷浜松病院の西側にあたり、高台方面の戦後の都市化の先駆けとなった。
 
【人口の増加】
 なお、住宅不足が続いた理由の一つに市外から転入する人口の増加があった。商工業の発展によって労働力不足となり、多くの労働者が流入してきたのである。人口総数から本籍人口を差し引いた人口は昭和三十二年四月で約二万六千人に上っていた。これは同期の静岡市の約二万一千人、清水市の約二万人より多く、浜松市への人口の流入は県下第一位となっていた。