昭和二十年代まで、冬季になると多くの家庭では各部屋に火鉢を置き、木炭をくべて暖房をしていた。また、七輪でも木炭を使って魚などを焼いていた。このため木炭の需要は大きく、木炭を生産する山村の経済を支えていたのである。昭和三十年代に入ると、競合関係にあるガスや石油コンロ、豆炭などの普及で木炭は次第に使用されなくなった。さらに、電気による暖房や調理器具の普及は木炭生産の息の根を止めるまでになってきた。これは山村人口の急激な減少にもつながった。浜松市内の昭和二十九年の木炭消費量は前年の一割五分から二割も落ちていると新聞は伝えている(『遠州新聞』昭和三十年二月八日付)。
【プロパンガス】
当時の家庭での燃料の使われ方の様子は、『広報はままつ』では「無駄のない薪の使い方」という記事が昭和三十年一月に、「石油コンロの取扱いに御注意」が同年四月に、「プロパンガスの扱い方」が同年十一月に、「再びプロパンガスの取扱いについて」が同年十二月に掲載されていることからもうかがえる。市はこの十一月の記事で、「最近時代の脚光を浴びて登場した家庭燃料プロパンガス」と紹介しつつ、過去に石油コンロの普及途上に火災が頻発したことの二の舞にならないように、プロパンガスの扱い方の注意点を知らせている。この十二月の記事には、市内の二千軒の家庭でプロパンガスが使用されているが、まだ一回の事故もないと記している。ただ、連続して注意を喚起する記事を広報紙に載せていることからも、爆発や火災事故の発生防止に力を入れていたことがうかがえる。
【都市ガス アメリカ極東空軍の顧問団宿舎の建設】
暖房用として木炭に取って変わったものは電気のストーブやこたつ、足温器など、調理用では石油コンロやプロパンガスなどであった。浜松の中心部には戦前から都市ガスが普及していたが、郊外では薪が主流で、焚き付けにはご(枯れた松葉)を使う家が多かった。このようななか、都市ガスに匹敵するものが浜松に登場した。それがプロパンガスであった。このプロパンガスが浜松に導入されたきっかけは『新編史料編五』 七社会 史料43にあるように、アメリカの極東空軍の顧問団宿舎の建設であった。昭和三十年三月にはペンキ塗りの十七戸の文化住宅が浜松市葵町に完成したが、同地には都市ガスが引かれていなかったため、アメリカの牧場や辺地などで広く使用されているプロパンガスを使うことにしたのである。アメリカ軍人の住宅に導入されたプロパンガスはガスボンベのほか、ガステーブル・ガスコンロ・ガスレンジ・自動湯沸器がセットされており、設置や取り扱いが簡便であった。
図3-59 ガス器具が並んだ台所
プロパンガスは都市ガスのない郊外や山間部でも手軽に使えることが分かり、また、電気や木炭より安価で、都市ガスや石油とほぼ同じ値段であったため、次第に一般家庭に普及するようになった。当時、大協ガス社長の朝倉正治は昭和三十一年二月発行の雑誌『東海展望』でプロパンガス効用論を説いている。朝倉は「大切な資源である所の石炭や木炭、なかでも薪等は、建設用材として外国より高い材木を輸入して居る状態の時に、貴重な木材を焼却すると云う不経済きわまりない事」と薪や木炭を批判している。なお、当時の普及状態については、「浜松地方にても、最近どうにか一般家庭に於いて利用される様になつて来ましたが、未だほんの一部の人達であり」と述べている。浜松でのプロパンガスの本格的な普及は昭和三十五、六年ころからであった。