[アメリカ人との交流で生まれた浜松ピジン]

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【アメリカ村 浜松ピジン】
 保安隊航空学校では昭和二十八年一月九日から米軍のベーコン少佐らを迎えて操縦教育が始まった。当時はL16練習機などの軽飛行機であった。三十年三月には米極東空軍の顧問団を迎えて航空自衛隊としての訓練が始まった。顧問団とその家族の七十人は先述のように葵町の基地滑走路の東端につくられた米軍住宅に入った。『静岡新聞』昭和三十年三月十七日付は「浜松にアメリカ村」という見出しで、「赤い屋根にスカイブルー、クリーム色、ピンクとさまざまにペンキで外装され、ツミ木のような住宅が出来上つて付近の開拓農家も目をみはつた、(中略)この住宅の内部は全てあちら風に出来ており、台所、湯沸器、バスルーム、水洗便所、そして防虫金網が張りめぐらされている、開拓農家の娘さんにいわせれば、こういう所に一度は住んでみたい文化住宅だとすいえんの的…」と記している。このアメリカ村の出現自体が、付近の住民にはアメリカ文化の象徴として影響力を持ったが、ここに住むアメリカ人と付近の住民との間に浜松ピジンなるものが出来た。浜松ピジンとは米軍人やその家族が付近住民と交流する中で生まれた混成語で、特に近所の商店などで買い物をする時に生み出されたものである。例としては「デンキ、ブロークンネ」、「セイムセイム」、「ハバハバ」(早く早く)があったという。この浜松ピジンは当時顧問団の一員として赴任した英語教官のグッドマン軍曹が論文として発表したものである。筆者はこのピジン語の研究者である玉木雄三と一緒に当時葵町で電器店を営んでいた堀内晃雄(大正九年生まれ)から浜松ピジンを聞き取りをしたことがある。これらの詳細は玉木雄三「『浜松ピジン』をめぐって」(『堺女子短期大学紀要』第36号)に記されている。歴史家服部之総が『黒船前後』で紹介した幕末の開港場で生まれた「横浜ピジン」と類似したピジンが浜松地方にも生まれていた。浜松ピジンは地域的には小規模ながら、米軍人とその家族が付近の日本住民と日常生活を通して友好関係を築いていった中から誕生したものであったと言えよう。