[電化生活]

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【電灯普及】
 浜松大空襲により中心部の家庭では一時的に電気が途絶えたことがあったが、その復旧は早かった。昭和二十三年の段階で、引佐郡都田村の電灯普及状況は『新編史料編五』七社会 史料31によると電灯のない家は六%であった。ただ、戦後の開拓地では電灯の普及は意外に遅かった。葵町に隣接した浜松工区(浜松開拓・今の高丘地区)では二十三年、中川工区(根洗松開拓・今の根洗町付近)も同じ時期に導入されたが、三方原工区(今の東三方町・豊岡町・三幸町・大原町・都田町・新都田付近)では二十八年から三十一年ごろになって電気が引かれた。
 
【家庭電化 電熱器 電気カミソリ 電気洗濯機 電化元年 電気釜 文化生活 三種の神器】
 さて、戦後の家庭電化の始まりは電熱器からであった。電気代は高いものの取り扱いが簡便で、七輪や練炭火鉢と共に使われた。家庭電化ではないが、昭和二十五、六年ごろから自転車の発電ランプが流行し始めた。これまでの乾電池式のライトに比べて明るく、夜の走行に役立った。二十七年末の新聞に松菱の「電気カミソリ宣伝売出し」の広告(『新編史料編五』 七社会 史料41)が出た。これは昭和三十年代になってから本格的に普及していく。昭和二十八年、三洋電機が噴流式の電気洗濯機を発売、翌年にかけて全国的な人気を集めた。浜松でも購入する家庭が増えたが、二十九年の価格は二万九千五百円(四年制大学卒の教員や公務員の初任給が八千円から九千円)もしていた。ただ、洗濯機は主婦の労働の軽減に大きな役割を果たすことになり、家庭電化のはしりとも言えた。大宅壮一は噴流式電気洗濯機発売の昭和二十八年を〝電化元年〟と名付けた。次に主婦の人気を集めたのが三十年に東芝が発売した電気釜であった。これはスイッチを入れれば自動的にご飯が炊き上がる自動式の炊飯器で、かまどで薪を焚いてご飯をつくるというこれまでの生活を一変させた。家庭への電化製品の進出はこれらのほか、電気アイロン(これまでは七輪で炭火をつくってアイロンに入れていた)、トースター、ミキサー、扇風機、掃除機と続き、昭和三十年代中ごろからは十年前には考えられないような〝文化生活〟が出来るまでになった。昭和三十年代、所帯を持ったらすぐにでも購入したい耐久消費財の上位三位を〝三種の神器〟と呼び、このころは、電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビであった。世の中は三十年の後半から始まった〝神武景気〟となり、家庭電化は勢いよく進み始めた。新聞の広告欄には家庭電化製品の広告が数多く登場するようになった。これら家電製品の普及、特に洗濯機と電気釜の普及は女性の家事労働を軽減させ、職場進出しやすい環境をつくっていった。しかし、昭和三十四年の経済企画庁の消費動向調査では、人口五万人以上の非農家世帯の家電の普及率は電気洗濯機が三十三%、テレビは二十三・六%、電気冷蔵庫に至っては五・七%に過ぎなかった。これらは高度成長が本格的になる昭和三十年代後半に急速に普及していくのである。ちなみに、二十九年ごろから洗濯機にゴムのローラーで脱水する装置が取り付けられたが、このゴムの部分は浜松のゴム会社でも大量に生産されていた。