[労働運動の変化]

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 朝鮮戦争が勃発した時期、左翼、とりわけ冒険主義的な活動を展開していた共産党への弾圧が激しくなり、昭和二十六年六月に「アカハタ」後継紙と目された印刷物にかかわる拠点の手入れが県下一斉に四十数カ所で行われた。また、浜松では反戦ビラを配ったことで二名が、可美村では対日講和草案に対する声明という文書を配布したことで一名が逮捕されている。
 
【日本労働組合総評議会 平和四原則 静岡県平和推進国民会議 松本美実 長谷川保】
 朝鮮戦争勃発の翌月、昭和二十五年七月に結成された日本労働組合総評議会(総評)は、当初反共産党色が強かったが、翌年三月の第二回大会で平和闘争を重視し、平和四原則(全面講和、再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対)を決定するなど急速に左傾・反米化していった。二十六年七月、総評は宗教者平和運動協議会などと提携し、平和推進国民会議を結成し、平和四原則の実現を目指していった。同年八月、静岡県労働組合評議会の結成準備会に結集していた労組、日本山妙法寺、キリスト教諸団体、婦人団体などが中心となり、静岡県平和推進国民会議が生まれた。同会議は浜松市紺屋町の日本基督教団遠州教会の松本美実、同信徒代表の長谷川保(三方原村)が中心的な役割を果たした。
 
【静岡県労働組合評議会】
 総評の県下組織としての静岡県労働組合評議会(県評)の結成大会は昭和二十六年十一月二十日に開かれたが、当時の組織は十六組合、百四十二支部・分会、六万八百人であった。
 
【全日本労働組合会議 全労静岡地方会議】
 破壊活動防止法案が閣議決定された昭和二十七年三月、総評はゼネストを行うなどの政治闘争重視の路線を取るようになった。この左翼的な政治色に反発して全繊同盟をはじめとした四単産が総評指導部への批判を行い、二十八年二月に全国民主主義労働運動連絡協議会(民労連)の結成を経て、同年七月の総評大会後、全繊同盟などの民労連系組合は総評を脱退し、二十九年四月に全日本労働組合会議(全労)を結成した。この動きは県下に波及し、二十八年十一月に全繊同盟県支部は県評を脱退、二十九年十二月に全繊同盟県支部や海員組合、中部電力などの組合を集めて全労静岡地方会議が結成された。これ以後、県内の労働運動は県評と全労静岡の二つにより行われることになった。
 
【遠州地方共闘会議 遠州地方労働組合会議 遠州地方民主主義労働議会】
 浜松地方では昭和二十五年二月、共産党系労組に主導権を握られていた遠州地方労働組合会議が深刻な左右対立を引き起こして解散となった。その後、共産党系以外の労組は遠州地方共闘会議を結成したが、昭和二十七年四月に遠州地方労働組合会議(遠労会議)と改称、これには県評参加の組合と中立系の労組が参加した。三十年六月時点で、遠労会議に参加していた組合は二十三、組合員は一万二千七百七十三人であった。全繊同盟に参加していた労組は遠労会議には参加せず、全労の地方組織である遠州地方民主主運動連絡協義労働運動連絡協議会に参加していた。同協議会に参加する組合は十、組合員は六千二百八十二人であった。これら二つの対立により、メーデーも分裂開催となった。