[平和運動のおこり]

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【保安隊航空学校 高射砲隊移駐反対遠州地方住民大会】
 保安隊航空学校が浜松飛行学校の跡地に開校されたのは昭和二十七年十月十五日であった。その後、三方原村では村内の一部が滑走路の候補地に挙げられたため、十月二十八日に開かれた村議会で反対の決議を行った。続いて翌年二月には村内への滑走路用地開設に反対する村民大会が開催された。結局三方原村への基地設置は立ち消えとなった。二十八年七月には保安隊の高射砲隊の浜松移駐の動きに対し、静岡大学工学部学生自治会学友会は反対の要望書を市長に提出した。これに呼応し、翌月には高射砲隊浜松設置反対遠州地方実行委員会準備会が静大工学部や教育学部の学生、遠労などが中心となって結成され、反対運動が活発となった。これに対し、自由党浜松支部議員会は高射砲隊の移駐には反対はしないと決定した。遠労会議は高射砲隊移住民大会を開催し、各方面に移駐駐反対遠州地方に対する申入書や要望書、抗議文などを採択した。その後になって移駐に反対しない議員のリコールに向けた行動も開始した。また、高射砲隊の移駐に伴い、遠州灘海岸線の演習場化に反対する浜名郡の舞阪・新居・篠原の三カ町村と浜松市新津・白脇・五島の各漁業者が署名運動を起こし、約二千七百名の署名簿と陳情書を知事に提出した。リコール問題は市長や正・副議長の仲介もあって折り合いがついたが、結局、十一月に第八十一特科大隊(高射砲隊)が長崎県針尾から保安隊航空学校に移駐した。しかし、この高射砲部隊の演習地が浜松近郊に見つからなかったため、約一年後に北海道の東千歳と千葉県の習志野に移駐していった。
 
【杉並アピール 原水爆禁止運動 終戦十周年平和の集い 原水爆禁止 日本協議会】
 このような平和運動の高まりを一層促進させたのが、昭和二十九年三月一日に焼津港所属の第五福竜丸がビキニ環礁で水爆実験に遭遇、大勢の乗組員が被爆したことであった。この惨劇を受けて東京都杉並区の主婦らが同年七月に「水爆禁止のために全国民が署名しましょう」などの杉並アピールを発表、これが一般国民による原水爆禁止運動の始まりとなった。翌年、広島で原水爆禁止世界大会が開かれた。この大会に参加し労働組合員の報告会を兼ねて、三十年八月十五日、浜松市公会堂で遠労会議主催の終戦十周年平和の集いが開かれ、来賓として出席した岩崎浜松市長は「広島、長崎が原爆により一大惨劇を展開したが、吾が浜松は原爆でない、シヨウ夷弾、爆弾、艦砲によつてかくも莫大な損害をうけたことを思えば原水爆の禁止もさることながら更にシヨウイ弾に至るまで、一切の武器を禁止し、一切の戦争は止めてもらいたいと願うものである」と述べ、割れるような拍手を浴びたと『広報はままつ』(昭和三十年九月五日号)は報じている。この年の九月に原水爆禁止日本協議会(原水協)が出来た。三十一年には浜松での原水爆禁止講演会に参加した二名の被爆女性が聖隷保養園を訪問している(『新編史料編五』 七社会 史料93)。