[労働組合と争議]

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【鈴木式織機 電産スト 中部電力労働組合】
 ドッジラインによりデフレ傾向が産業界に広がり、鈴木式織機は昭和二十四年の後半から深刻な経営危機に陥った。賃金の遅配のみでは経営は好転せず、ついに賃金の引き下げや人員整理を行うことになった。これに対し、組合側は二十五年二月に非常事態宣言を出し、三月にはストライキに入った。組合は産別会議傘下の全日本金属労働組合に属しており、強硬な姿勢でストに臨み争議は泥沼化、ついに第二組合が結成されて長期間の争議となり、全国的にも注目を集めた。激しかった争議は静岡県地方労働委員会の斡旋案により同年七月八日に解決したが、ストについて行けない第二組合員の増加など、ストを指導した上部団体に批判が強くなっていった。国鉄労組浜松工場支部は夏季手当ての支給をめぐって昭和二十七年六月十日に一斉半日休暇闘争に入った。しかし、当局と夏季手当て支給の金額で妥結し、ストを中止するとの指令があり、八時半過ぎに一斉半日休暇の中止を決めた。このようなストが続く中、昭和二十年代半ばから電産(日本電気産業労働組合)はストライキをたびたび決行していた。昭和二十五年十二月、電産浜松分会は工場に対して二時間、家庭には十分の停電ストを行った。二十七年九月から十二月にかけて、電産は全国規模でストライキを十数回にわたって行い、特に発電所などでの電源ストは全国の産業活動や市民生活に深刻な影響を与えた。浜松での電産ストには「『自己の生活権を守るために、一般大衆を殺している、こんな不合理なことはない』との世論が強く、電産ストはいよいよ、一般の支持を失いはじめている」(『静岡新聞』昭和二十七年十月二十九日付)と報道された。電産は単一の産業別組織で、戦後一貫して左翼労働運動を行う代表的な組合であった。しかし、朝鮮戦争後のこの時期には経営者側は賃金のみでなく、労働条件でも厳しい態度で臨み、要求を拒否するなかで争議は続いた。この激しい闘争は第二組合の誕生となり、特に静岡県ではそれが顕著で、中部電力労働組合が結成されて争議は解決に向かった。電産は静岡県支部の解散と中部地方の組織も失って、この争議は惨敗に終わり、これにより左翼的な労働運動は全国的にも浜松地方でも衰退に向かった。
 昭和二十八年十二月に浜松地区タクシー労働組合が、翌年三月には神経科浜松病院組合が結成されたが、これにより製造業以外にも労働組合の結成が進んだことが分かる。昭和二十九年四月二十五日、私鉄総連は賃上げ要求で全国的なストライキを決行、遠州鉄道も二十四時間ストライキを行ったが、交通機関のストだけに大きな影響を与えた(『新編史料編五』 七社会 史料86)。
 
【浜松労働会館 労政事務所 静岡県労働金庫浜松支店】
 一方、遠労会議は昭和二十八年八月以降、労働者のための施設として労働会館の設立に向けた運動を行い、労働者の多額の出資とともに県や市の補助を受けて東田町の東小学校の跡地に浜松労働会館の建設を進めた。これは二十九年九月に開館したが、ここには労組の大会などにも使えるような講堂や遠労の事務室なども出来た。また、建物内には静岡県の労政事務所も同居し、静岡県労働金庫浜松支店も同月二十日に開店した。
 当時の遠労会議の運動としては昭和二十九年十月、繊維機械制限の反対を決議し、通産省に陳情している。また、伊熊織布従業員と組合結成について懇談している。これは遠労が繊維業界、繊維労働者にも視野を広げ、連携を模索しつつあったことを示唆している。なお、昭和二十年代の終わりごろ、入野村の小規模な織物工場にも全繊同盟の集会に参加する労働者があったが、「経営者から参加しないほうがいい」という話があり、それ以降は参加しなかったという(西区西鴨江町在住・田村隆夫)。これらの織物工場労働者への労組の接近の動きは遠労と全繊同盟の双方からあったこと、経営者は従業員の労組加盟に慎重な姿勢をとっていたことが分かる。
 
【近江絹糸紡績のスト 人権スト】
 これまでほとんどストライキを行わなかった全繊同盟傘下の綿紡大手十社の労働組合は、昭和三十年十月に賃上げを要求して全国一斉ストライキに入った。県下の九工場、遠州地方では日清紡浜松、東洋紡浜松・二俣、富士紡鷲津の四工場の労組がストライキを実施した。全繊同盟がストライキも辞せずといった姿勢になったのは前年の近江絹糸紡績のストであった。近江絹糸紡績では、信書の開封や仏教の強制、重役の人格を無視した言動などに反対し、御用組合と決別した全繊同盟傘下の第二組合が彦根、富士宮をはじめ全国の工場で三カ月余にわたる大争議を行った。この争議は〝人権スト〟と呼ばれ、前近代的な労務管理に批判が集中、綿紡大手十社の組合員が相次いで応援活動に参加し、人権が蹂躙(じゅうりん)されていた職場の現状を知り、激しい闘争の現場に身を置いた。このことが全繊同盟発足以来の大争議につながったものと考えられる。この経験がもとになって、人権問題とも言える労基法違反にかかわる浜松地方の中小織物工場の労働者へ全繊同盟の働き掛けが進んでいった。
 
【回覧ノート らくがき運動】
 遠州地方の織物工場にも労働組合ができ、ある労組の青年婦人部が近江絹糸紡績の争議から始まった回覧ノート(らくがき帖)に思っていることは何でも書こうという「らくがき運動」を始めている(『東海婦人新聞』昭和三十二年八月十八日付)。例えば、食堂が改築された時のものとして、「どこかのホテルヘ行った気分で食堂に入ってくる、そのトタンにお麦(または外米)の御飯に大根のミソ汁じゃたまらない、食堂改築よりも食事改善が先だ」という率直な声が記されていた。この労組はらくがき帖に書き留められていた文章を集録して文集を発行した。
 
【陸上大会】
 この時期、遠労会議は毎年秋に陸上大会を主催していた。労働者の福利厚生に労組が力を入れていたことが分かる。