【神武景気】
朝鮮戦争の休戦以来、不況風が吹き始めた。遠州地方も例外ではなく、これにより繊維だけでなく、多くの産業の中小企業は操短、工員の一時帰休、休業、転業、中には廃業するものも出て、それは労働者の生活に大きな影響を与えることとなった(『新編史料編五』七社会 史料87)。ところが昭和三十年に神武景気と言われる好景気が始まった。中卒者には「明るい就職の春」と言われたが、東洋紡浜松、遠鉄、日清紡浜松、大東紡高塚、富士紡鷲津などといった一流会社への就職となると例年になく狭い門になっていると『静岡新聞』昭和三十年一月七日付(『新編史料編五』 七社会 史料88)は伝えている。また、中卒者の求人の約六割が隣接または県外求人であることが注目される。なお、高度成長が始まる前の昭和三十年、遠州経営者協会加盟会社(五十三事業場)の平均賃金は男子一万五千六百九十九円であるのに対し、女子は六千八百九十九円で、女子は男子の半分以下であった。当時はバスの車掌やデパートの店員、紡績や織物工場の女子工員の多くは二十二、三歳で結婚すると退社して家庭に入った。これに対し、男子の多くは定年まで勤める者がほとんどであったのでこの数字になったものであろう。
【遠州織物不況突破促進業者大会 不況突破労働者大会】
昭和三十二年まで続いた神武景気が終わり、三十三年は繊維業界にとっては不況となった。同年七月二十二日には遠州織物工業協同組合、浜松商工会議所、浜松市の三団体主催の遠州織物不況突破促進業者大会が開催された。同じ日に全繊同盟は浜松駅前で不況突破労働者大会を開催した。また、前日に全繊同盟は整理された織布業の従業員の生業資金を融通するよう浜松市長に申し入れている。ここでも全繊同盟が中小織物工場の労働者と連帯した闘いを模索していることがうかがえる。
【過剰労働力 集団就職】
昭和三十年ころ、日本の労働人口の半数近くは農民であった。農民は農地改革によって小経営者となったが、狭小な農地面積のために都市と比べると貧しい者が多かった。このため、二、三男などは就農させることは出来ず、子だくさんの農村は過剰労働力の状態にあった。戦後復興を成し遂げた都市の工場や商店は農村の低廉で良質、しかも豊富な労働力に期待するようになった。京浜や阪神、中京などの企業は東北や九州地方など農村部の中・高卒者を大量に求めるようになったが、初めての集団就職列車が上野駅に着いたのは昭和二十九年四月のことであった。遠州地方の織物工場ではこれまで求人先は東北方面が多かったが、浜松公共職業安定所は試みに昭和二十九年ごろから九州地方の少女たちを採用したところ、その旺盛な勤労意欲が業者間で評判となった。昭和三十年五月の新聞の見出しには「職場娘は朗らかです九州から遠州へ・初の集団就職」(『新編史料編五』 七社会 史料90)とあり、このころから集団就職が始まったようだ。彼女らは給料の大部分を家に送金したり、早期退職者が少なかったようで、経営者の話題になっていた。仕事の後は皆と一緒に歌を歌ったり、テレビを見たり、バレーボールをしたりすることが彼女たちの楽しみであった。『東海展望』昭和三十一年十一月号に「消えた女工哀史」という記事(『新編史料編五』七社会 史料92)が掲載された。これには海の家や美容院の開設の様子も記されている。しかし、反面では前述のような入野村での労基法違反の工場が存在していたことも事実であった。
集団就職した若年労働者への大規模な福利厚生施設や勉学環境の充実は昭和三十年代後半になってから進んでいく。