終戦三日後の昭和二十年八月十八日、内務省は「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各都道府県に発令し、占領軍兵士から日本の婦女子の操を守るためにと全国に特殊慰安施設をつくらせた。このための女性募集の広告が『静岡新聞』に掲載されたのは九月八日のことで、「急募 芸妓、娼妓、酌婦、ダンサー、女給 各一千名」と出ていた。そのほとんどは娼妓であった。同施設はGHQによっても許可された。大都市や占領軍兵士が大勢駐屯した都市につくられ、最盛期には七万人の女性が従事したと言われている。しかし、昭和二十一年一月にルーズベルト前アメリカ大統領婦人の反対や性病の蔓延などによって特殊慰安施設は廃止となった。その後、昭和二十二年一月十五日に婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令が施行され、事実上公娼制度は廃止された。しかし、本人の自由意思による売春であることを前提に、娼婦が別の職業に就くまでの暫定措置として、特殊飲食店として地域を限って売春が許可・黙認されることになった。この地域は通称赤線地帯と呼ばれることとなる。
【接客婦 二葉園 楽天地組合 浜松遊園組合】
昭和二十四年、参議院法務委員会からの依頼で浜松保健所による特殊飲食店での接客婦六十二人への調査が行われた。それによると、接客婦(実態は売春婦)になった動機は生活難が四十七人で最も多く、割合は七十六%であった。また、親分関係では全員が主人(他人を隷属させている者)持ちで、その収入の五十五%を取られ、いつまでたってもこの世界から抜けられないという。このころ浜松には特殊飲食店が四十軒もあり、接客婦(届け出た者のみ)は百二十名を数えていた。これ以後の推移は表3-35の通りである。浜松では戦前からの遊郭であった鴨江町の二葉園が戦後に特殊飲食店として繁栄し、夜ともなれば東京の吉原に似て異様な光景を見せていた。浜松の駅南にも楽天地組合があり夜の街としてにぎわったが、昭和二十七年浜松遊園組合が駅南に新たに大規模な特殊飲食店街を建設しようとした。場所は寺島町の一角で、市内に散在していた特殊飲食店約五十軒を集めて赤線地帯をつくる計画であった。翌年五月から六月にかけて地元の住民が「御殿場の二の舞は真平ご免だと憤慨」し、反対運動を繰り広げた。同地は南部中学校にも近く、建設予定地を八百名もの中学生が通り、教育上、風紀上好ましくないというものだった。これにより浜松遊園組合の特飲街は建設中止に追い込まれた。こうしたなか、国会での婦人議員を中心に、売春禁止法制定の動きが年々盛んになった。
【売春防止法 転廃業の対策 二葉旅館街組合】
県内では駐留軍の基地があった富士山麓の御殿場をはじめ、各地に接客婦が増加し、風紀を乱すようになった。このため、浜松市婦人連盟も加盟していた県婦人団体連絡会は昭和二十八年県知事あてに風紀条例制定についての要望書を提出した。これにより県は同年十月に売春取締条例を制定したが、婦人団体の要望とはかけ離れたものであった。県婦連は同年十二月に衆参両院の婦人議員に売春防止法の制定の要望書を提出した。売春禁止の法案はたびたび流産となったが、ついに昭和三十一年五月二十四日に売春防止法が成立した。ただ、その施行は業者と接客婦の転業問題も絡んで昭和三十二年四月となったが、完全な形での売春防止法の施行は三十三年四月一日であった。これに関して、浜松労働基準監督署、浜松公共職業安定所、浜松保健所、浜松福祉事務所、各警察署などは転廃業の対策についてたびたび説明会を開催した。昭和三十三年一月、警察は赤線業者に対し、①売春企業の完全放棄 ②従業婦の全員解雇 ③前借金棒引の宣言 をするように指示した。また、同月に保健所は旅館、飲食業に転業する場合の説明会を開催した。そして、同年二月二十八日に前記の関係各官庁と七十二の業者との転廃業打合せ会を開催し、これまでのような形態での営業は三月十日までとし、十一日からは新しい業態とすることを厳重に申し渡した。三月時点での業者は七十九軒、接客婦は二百六十名であった。業者の転業先は旅館が五十二軒、料理店が五軒、ほかに簡易宿泊所、下宿、マネキン販売、菓子製造業もあった。接客婦の過半数は郷里に帰るほか、バーの従業員や女中などに職を変えた(『新編史料編五』七社会 史料123)。大正十一年に東海道筋から移転開業し、二葉遊廓として誕生してから三十六年、二葉園は昭和三十三年三月十日に解散した。ほかの業者も同日に解散、浜松から赤線の灯が消えた。同月二十三日、二葉園は二葉旅館街組合として生まれ変わった。
表3-35 浜松市内の特殊飲食店の数量変化
出典:『静岡新聞』、『遠州新聞』、『浜松商工名鑑』1951より作成
出典 | 浜松特殊喫茶店 二葉園組合 | 浜松特殊喫茶店組合 | 合計 | 接客婦 | ||
『静岡新聞』 昭和24年8月27日付 | 16軒 (以前は13軒) | 24軒 (以前は14軒) | 40軒 | 120名 | ||
『浜松商工名鑑』1951 昭和26年7月20日発刊 | 18軒 | 16軒 | 34軒 | ― | ||
浜松特殊喫茶店 二葉園組合 (鴨江町) | 楽天地組合 (砂山町新川東岸) | 浜松遊園組合 (市内散在) | ハート組合 (市内散在) | 合計 | 接客婦 | |
『遠州新聞』 昭和31年1月28日付 | 21軒 | 13軒 | 25軒 | 11軒 | 70軒 | 280名 |
『遠州新聞』 昭和32年3月31日付 | 21軒 (100名) | 35軒 (150名) | ||||
『静岡新聞』 昭和33年3月10日付 | 21軒 (70余名) | 13軒 | 40軒 (150名) | 79軒 (その他を含む) | 260名 |
【ステッキガール 売春防止法違反事件】
売春防止法施行後、いったんは帰郷した元接客婦の更生はうまく進まず、再び元の雇い主を頼って姿を見せるものも出て来た。昭和三十四年二月、浜松中央警察署防犯係はもぐり売春としてのステッキガール組織の売春取り締まりに乗り出した。当時市内には六十九のステッキガールクラブがあり、浜松市福祉事務所の調べでは約七百人、警察署の防犯係では約二千人のステッキガールが"営業"していると推定していた。これ以降、ステッキガール関係の売春防止法違反事件はたびたび起こり、浜松のステッキガール問題は週刊誌などに取り上げられるほどであった。