[青年運動の展開と転機]

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【青年学級 青団年】
 戦後しばらくまで農村部を中心に各地の青年会の活動は活発であった。昭和二十年代半ば、中学校単位の青年学級が各地に設置され、定時制を含め、高校に進学しなかった勤労青少年への教育が行われだした。この青年学級の生徒は地元の青年団にも所属していたので、青年団と青年学級の活動が重複しつつも、役割を分担して進められていたようである。『長上村青年団報』第1号が昭和二十七年に発刊され、そこには与進青年学園という青年学級での活動と青年団活動の両者についての活動報告がなされていた(青年学級については第三節教育 第六項を参照)。この青年学級には文芸・音楽・演劇・調理・生花・農芸などのクラブ組織があってそれぞれの授業や討論会が行われていた。昭和二十八年七月に同学園で男女間の問題についての討論会が持たれたが、女性からの発言が低調であったと報じられている。青年団としては、地元の祭りに参加することや、運動やレクリエーション、さらに討論会・弁論大会、募金活動、婦人会との懇談会などもあった。
 
【演劇 長上村青年団 梨の会】
 昭和二十年代前半、娯楽に乏しい農村部では青年団による演劇が村民の娯楽としてもてはやされていたが、二十年代後半になって、市街地の復興が進み、映画館が数多く出来ると、青年団による演劇は徐々に廃れていった。長上村青年団では梨の会という青年団員による演劇が昭和初期から続いていたが、一部の支部では参加しないところが出始めていた。そこで、十の支部単位にそれぞれ行っていた演劇から同好の有志がグループをつくって行う演劇へと改革が行われた。
 これまでの梨の会は派手すぎる、寄付の強制がある、見物人がいなくなっても明け方まで公演するという問題点があった。このように全員参加を前提とする運営から、同好の有志によるグループ制への動きは、青年学級での音楽クラブ、文芸クラブが発表会を行ったり、歌集を作成したりする動きとも関連し、各地の青年団でも広がりつつあった。また、この時期、伝統的な足並みをそろえた活動を大切にする動きと、一人一人の個人の意志を大切にする動きの相剋が長上村青年団でも見られていた。前者の主張としては、天王新田支部が梨の会に、全支部参加が絶対条件とし、「みんな揃つてみんなに楽しんでもらい、自から楽しむ、これが団体行動の美点だ」というものであった。また、後者の主張としては、梨の会の改革は支部にこだわらずグループ制を取り上げたのは「支部にこだわることは一種のワクを作ることである。そうして必ず自由の意志の束縛が生れてくる。元来支部というものは義理とか人情によつて結ばれ保たれて行くものである。そうした所には創造もなく、進歩もないだろう。」という考えであった(『長上村青年団報』№3)。
 
【白脇青年会】
 昭和三十年十月十一日付『遠州新聞』(『新編史料編五』 七社会 史料91)では白脇青年会の活動を克明に記述している。この青年会では、青年の演劇発表を入れての敬老会、市内の著名人を招いての講演会、警察官を招いての防犯懇談会、奉仕活動、全白脇対抗球技大会・駅伝・料理講習会・子供会の開催など、実に多彩な活動を展開していた。また、青年会の機関誌『白青集』を年に五回も発行した。
 
【東伊場町青年会】
 このころ都市部の青年会の中で活発な活動をしていた東伊場町青年会が解散となった。この青年会は機関誌『まなび』を発行したり、移動文化館を誘致するなど文化活動が活発で、一時は百余人の大世帯であったが、昭和三十年あたりから脱退者が増え、昭和三十一年には二十八名となり、翌年六月に解散となった。この背景には一部の不良グループによるゆすりやたかりがあり、会員の減少につながったと言われている(『静岡新聞』昭和三十二年九月五日、七日付)。同新聞記事では、東伊場町青年会は市の連合青年会に加入していなかったことも解散を早めた一因としている。
 この後、高度経済成長の時期になると、農家の二、三男は工場や商店に働きに出る者が増え、青年会の集まりも悪くなり、農村部の青年会も活気を失っていくのである。