中国からの引き揚げは昭和二十年から始まり、その後も少しは続いたが、国共内戦や日中の国交断絶などにより大幅に遅れていた。昭和二十八年二月になって、日本赤十字社や日中友好協会などと中国紅十字会との会談が行われ、三月になって中華人民共和国からの引き揚げが本格化した。また、ソ連からの引き揚げも同年十二月から再開された。中国からの引き揚げは昭和三十三年七月まで、ソ連からのそれは九月まででひとまず終わったが、翌年からは北ベトナムやソ連からの引き揚げが行われた。郷土出身者が帰国するたびに新聞はこれを大きく扱っていた。中国やソ連からの引揚者は西遠地方(浜松市・浜名郡・引佐郡)で三十九世帯・六十四人(昭和三十年四月まで)であったが、思想傾向を疑われ就職難となる場合が多かった。しかし、縁故や知人関係を頼って約七割が就職できた(『新編史料編五』 七社会 史料63)。ただ、昭和三十二年になっても中国やソ連からの未帰還者は浜松市内だけでも百二十世帯に上っていた(『広報はままつ』昭和三十二年二月五日号)。
【静岡県引揚者団体西部連合会】
ちなみに静岡県引揚者団体西部連合会が昭和三十二年三月現在でまとめた『引揚者名簿』によると戦後の引揚者の世帯数は表3-36のようになっていた。
表3-36 引揚者の市(地区)町村別世帯数
出典:昭和三十二年三月現在『引揚者名簿』より作成
市(地区)町村 | 世帯 | 市(地区)町村 | 世帯 | ||
浜松市 | 城北 | 212 | 浜松市 | 和田 | 40 |
江東 | 93 | 中ノ町 | 15 | ||
江西 | 76 | 芳川 | 27 | ||
駅南 | 142 | 飯田 | 21 | ||
中央 | 74 | 三方原 | 79 | ||
東 | 99 | 吉野 | 4 | ||
北 | 77 | 神久呂 | 22 | ||
県居 | 67 | 都田 | 41 | ||
西部 | 164 | 計 | 1659 | ||
萩丘 | 145 | 浜名郡 | 可美村 | 25 | |
曳馬 | 75 | 篠原村 | 59 | ||
富塚 | 12 | 庄内村 | 42 | ||
蒲 | 36 | 湖東村(旧伊佐見村) | 18 | ||
白脇 | 18 | 湖東村(旧和地村) | 17 | ||
新津 | 46 | 入野村 | 23 | ||
五島 | 9 | 積志村 | 57 | ||
河輪 | 8 | 計 | 241 | ||
笠井 | 38 | 合計 | 1900 | ||
長上 | 19 |
【軍人恩給の復活】
一方、戦争犠牲者に対する国の援護はこれまで十分とは言えなかった。講和条約発効直後の昭和二十七年四月三十日、戦傷病者戦没者遺族等援護法が公布された。これにより、障害者本人には障害年金、死亡者の遺族には遺族年金や弔意金などが支給されることになった。また、軍人については昭和二十八年に軍人恩給が復活している。
【静岡県身体障害者団体連合会 静岡県傷痍軍人会連合会 浜松身体障害者授職所】
昭和二十七年三月、傷痍軍人会なども入った静岡県身体障害者団体連合会が設立され、傷痍軍人だけの静岡県傷痍軍人会連合会も同年八月に発足し、それぞれ国や地方自治体にさらなる援護を求めていった。これを受けて昭和二十九年四月、浜松市助信町に浜松身体障害者授職所が開設された。昭和二十九年ころ、浜松公共職業安定所に登録されている身体障害者は男二百五名、女三十八名、なんとその八割が戦争や戦災による犠牲者であった。そのうち就職している者は男百二十一名、女二十二名、職業訓練中の者が二十三名で、就職したくても出来ない人の割合は三割もあった。また、当時は不景気でむしろ障害者を整理の対象にしている状態であった(『新編史料編五』 七社会 史料62)。
図3-63 浜松身体障害者授職所
【戦没戦災死者追悼式 平和記念館】
浜松市が主催する初めての戦没戦災死者追悼式が行われたのは昭和二十七年六月十八日であった。この日は浜松大空襲の記念日、浜松市営プールには戦病死者三千六百四十五柱、学徒動員犠牲者百六十二柱、戦災犠牲者二千七百七十五柱の遺族を招待して厳粛かつ盛大に行われた。また、昭和二十九年九月二十五日に住吉町の旧陸軍墓地に平和記念館が建設され、戦没者の写真や遺品を陳列する部屋と位牌堂が設けられた。
図3-64 平和記念館広場での戦没戦災死者追悼式
【太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔】
戦災死没者の遺族に対する援護は戦没者に比して少なかった。講和後の昭和二十七年、全国戦災都市連盟(昭和二十二年発足)の総会で、財団法人太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会の設立が決議された。そして、三十一年十月、姫路市に太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔が建てられ、慰霊塔の側柱には浜松市分として「濱松市 被爆年月日昭和十九年十二月十三日以降三四(ママ)回 死歿者数 三、二三九名 罹災人口一二六、四六五名 復興担当者 市長 岩崎豊 前市長坂田啓造 元市長 藤岡兵一」と刻まれている。一方、戦災未亡人の平野はなは「生きている軍人の恩給の増額が議決された時、戦災死であるばかりに、何等の保証(ママ)も与えられない。『我々をどうしてくれる!』と叫びたい」(浜松市母子の会『あゆみ』十周年記念)と書いているように、旧軍人への援護は講和後に大きく進んだが、戦災死者の遺族への金銭的な支援はなかった。