【浜松仏教養護院 慈照園 聖隷保養園 慈悲庵 鴨江救護所】
市内の社会福祉施設のうち、生活保護施設は昭和三十年当時五つあった。浜松仏教養護院は養老施設で四十七名が収容されていた。慈照園と聖隷保養園は更生施設、このうち慈照園は昭和二十七年に新しい収容施設と作業所を建設した。この年、慈照園を経営する遠州仏教積善会は財団法人から社会福祉法人となった。聖隷保養園は医療保護施設としての使命も持ち、結核患者や回復した人たちを支援していた。戦前から続いた聖隷保養農園という名称は昭和二十七年に社会福祉法人聖隷保養園となり、これまで職員は無月給、無報酬であったが、給料制となった。慈悲庵は宿所提供施設で、戦災者や引揚者など百三十名余が暮らしていたが、男性の多くは日雇労働者であった。救護施設の浜松市鴨江救護所には八名が入所していた。
【公益質屋】
昭和二十九年二月、戦災で焼けた寺島町の公益質屋跡に新しく造った浜松市の公益質屋が営業を再開した。公益質屋の目的は、低利での生活・生業資金を貸し付け、市民生活の安定を図ることであり、戦前には馬込町と寺島町の二カ所にあった。小規模経営の商工業者や労働者等の市民から再開の声が強くなり、再開となった。生活資金は一世帯五千円、生業資金は一万円を限度とした貸し付けであった。ちなみに、質物は衣類が最も多く、遺族債券や引揚者債券、装身具などもあった。昭和三十二年度の利用状況は千七百二十一人・三千九百四十口で、貸付金は三百八十八万円であった(『広報はままつ』昭和三十三年五月六日号)。