昭和二十五年に始まった浜松まつりは翌年からもほぼ同じような内容で行われていた。昭和二十六年の浜松まつりに向けて「凧揚げ音頭」と「浜松夜曲」が、翌年には「浜松まつりの唄」が作られ、市内は一段とにぎやかになった。
昭和二十七年は糸へん業界の不況で浜松まつりの経費獲得が苦しかった。そこで同年二月に浜松商工会議所で開催されたまつりの懇談会の席上、婦人代表者から「五日間の会期は長すぎる、これを節減して…」という意見が出されたが、凧揚げ会は「五日間有効に実施したい」と述べ、その後になって五日間と決定している。
【屋台】
戦災で屋台を焼失した町の中には豪華な御殿屋台の建造がすぐに出来ず、昭和二十年代後半になっても底抜け屋台という有り様だった。昭和二十八年五月の浜松まつりでは、前年十二月に完成した浜松市役所前への屋台の勢ぞろいが行われた。ここの道路は浜松一の幅員(三十六メートル)で多くの屋台が集まるには便利な場所であったが、他町の屋台との比較も容易にでき、底抜け屋台を持つ町にとっては御殿屋台建造に向けて力が入っていった。昭和三十年四月三十日発行の『浜松まつり凧揚げ案内』によれば、「今では底抜屋台は極めて尠く各町とも美麗な彫物を施した祭礼屋台を競つている。」とある。
【浜松市観光協会 五社神社の御輿渡御 復古調】
これまで浜松まつりの主催者は浜松まつり本部(浜松商工会議所が中心となっていた)であったが、昭和二十九年から浜松市観光協会にバトンタッチされた。このころになると、まつりの行事内容は二十五年の農業や工業関係の行事がなくなり、観光的なものが多くなった。昭和三十年の浜松まつりの行事は表3-38のとおりであった。翌三十一年もほぼ同様な行事が行われたが、前年にはなかった浴衣展示会が浜松商工会館であった。まつりの正式行事ではなかったが、この年の五月四日に戦後初めて五社神社の御輿渡御が行われた。同日午前十時に諏訪神社、十一時に五社神社の大祭が行われ、午後一時から御輿と神宝に奉仕する行列が五社神社を出発した。行列の先頭には岩崎市長が直衣姿で乗馬、先導に当たり、市内各町を経て和地山町の凧揚げ会場へ向かった。凧揚げ会場ではこの御輿が各町の若衆に担がれて会場を回った。この御輿渡御は戦前の祭りで行われていたもので、やや形式は異なるが戦後初めて復活したことは講和後に復古調となった政治状況を反映していると言えよう。
昭和三十二年の浜松まつりの人出は、雨にたたられたこともあって約八十五万人、同三十三年は約百万人、まつり本部での調べでは、それ以前の見物人はせいぜい遠州地方からであったが、その範囲が愛知・三重・岐阜から東京・横浜あたりまで広がり、観光バスで乗り込んでくる団体が多かった。
表3-38 第六回 浜松まつり行事一覧表(昭和30年)
凧揚競技 | 会場 和地山町(旧練兵場) 期日 五月一日より五日まで毎日午後一時より五時まで実施 参加 六十四ケ町 |
御殿屋台 | 昼夜引廻し 夜七時より会期中毎日 参加屋台六十余台 |
打揚花火 | 昼の部 市内五ケ所にて風船其の他を打上げる 夜の部 浜松城趾にて競艶連続 |
浜松まつり 写真コンテスト | 締切 白黒印画の部 五月二十日 カラーの部 五月二十五日 六月一日~五日迄浜松まつり写真コンテスト発表展を開催 主催 浜松商工会議所 |
抽籤券付 大売出し | 期間 五月一日より五日まで全市商店連合協賛大売出し 賞金 一等 三、〇〇〇円 浜松まつり会長賞 一〇本 二等 五〇〇円 四〇本 三等 一〇〇円 一〇〇〇本 |
広告大カーニバル | 豪華広告 仮装行列 五月一日より三日迄晴天毎日(雨天順延) 浜松商工会議所前に集合して 午後一時半より五時迄全市巡回 賞金総額 三六、〇〇〇円 花自動車カーニバル 花トラック 軽オートバイ等四〇〇台参加 |
豪華絢爛 木遣道中 | 期間 五月一日より五日まで毎日正午より四時まで 参加 中央芸妓連二百数十名 市内数ケ所に於いて舞踊公開 |
【寄付金 『浜松市総合調査報告書』】
浜松まつりにはこれまでいくつかの問題が指摘されてきたが、その多くは多額の経費がかかることや、それに付随しての寄付金についてであった。昭和三十三年三月、日本都市学会がまとめた『浜松市総合調査報告書』では浜松まつりについて以下のような指摘がなされた。
凧揚げの基盤は、町内会の結束に由来し、その紐帯となるのは町内有志を中心とする封建遺制的形態である。町内に男子の出生した場合にはその家柄、身分、財産などに応じて凧を町内に寄附する習わしとなつている。町内会はその寄附された凧をあげることによつて他町内会と競争する結果、必然的にその凧が他のものを圧倒するようなものであることが望まれることになる。(中略)凧となるとおたがいに競争し、毎年新しいものにしなければならないところに問題の1つがある。(中略)浜松の市民性に宿場町としての伝統に支配される地元性と派手を好む虚飾性とがこの凧揚げ祭りを支持しているとみることができるが、それらにもある程度の限界のあることを知る必要がある。むしろ伝統としての凧揚げを、地元負担による競争とその形から、もつと大衆のレクリエーションとしての方向に再組織することが望まれるのではあるまいか。
表3-39 凧揚げと屋台引き回しの参加町(組)数の推移
出典:『静岡新聞』、『浜松民報(遠州新聞)』、『広報はままつ』より作成
注:参加町数や人出の数は新聞各紙や『広報はままつ』などによりやや異なるが、『浜松民報』・『静岡新聞』・『広報はままつ』などの数字を使った。
年 | 凧揚げ 参加町 (組)数 | 屋台引き廻し 参加町 (組)数 | まつりの人出 (人) |
昭和26年 | 60余 | 60 | 700,000 |
27 | 60 | 60 | 1,000,000 |
28 | 60余 | 60 | 500,000 |
29 | 60 | 60余 | 1,000,000 |
30 | 64 | 60余 | 600,000 |
31 | 64 | 60余 | 2,000,000 |
32 | 60 | 60余 | 850,000 |
33 | 60 | 60余 | 1,000,000 |
34 | 60 | 60余 | 1,140,000 |
注:参加町数や人出の数は新聞各紙や『広報はままつ』などによりやや異なるが、『浜松民報』・『静岡新聞』・『広報はままつ』などの数字を使った。