昭和二十五年五月に県立公園となった浜名湖の観光の中心地は、昭和三十年代の前半までは弁天島であった。弁天島は海水浴や潮干狩りの好適地で、鉄道の便が良かった。昭和二十四年からは花火大会が再開され、夏季の季節列車が運転された。昭和二十年代後半には舞阪町観光協会が町内の旅館や土産物店などによって設立され、弁天島の観光宣伝に努めた。昭和二十八年八月上旬に浜松県税事務所が調査した管内の旅館の料理飲食税の納付額上位五傑は丸文・松月・遊船家・高砂・米久、この内上位の三つは弁天島の旅館、四位と五位は浜松の旅館であった(『浜松民報』昭和二十八年八月六日付)。同年八月には県下唯一のモーターボート競走場である浜名湖競艇場が舞阪・新居・雄踏の三町によって舞阪町裏弁天に開設され、浜松市内からも多くの競艇ファンが押し寄せた(『新編史料編五』 七社会 史料114)。また、昭和二十九年九月に浜名湖ホテルのあった乙女園に県営の弁天島水族館が開設され、親子連れや学校の遠足で訪れる児童・生徒でにぎわった。これにより弁天島駅の乗車人員は昭和二十四年に年間約七十万人であったが、同三十年には九十万人を超えるまでになった。しかし、このころから浜名湖への観光客の足は湖北の舘山寺や佐久米、湖西の女河浦などにも向かうようになった。
【舘山寺 舘山寺観光ホテル 舘山寺観光協会 舘山寺タクシー 舘山寺旅館組合 入山料 国鉄周遊指定地 浜名湖観光汽船 遠鉄バス】
湖北の舘山寺は、夏季には海水浴客が来て旅館を利用していたが、冬場は閑古鳥が鳴く状態であった。浜名湖が県立公園となった昭和二十五年、県は舘山の裏山に展望台の設置を考えていたが、舘山寺との折り合いがつかず、大草山の頂上に展望台をつくった。また、翌二十六年には「舘山寺音頭」ができ観光宣伝に努めた。昭和二十八年になると、規模の大きな舘山寺観光ホテルが開業、これまで観光開発に努めてきた舘山寺保勝会は舘山寺観光協会と名称を変え、同年三月には徳田勝彦が舘山寺タクシーを設立した。昭和二十九年十月には舘山寺旅館組合が結成されたが、当時この組合には、山水館欣龍・小波館・.楽・舘山寺観光ホテル・山.館・旅館見晴館・旅館松月・海楽荘の八軒が入っていた。舘山寺に観光客が大勢来るようになった昭和二十九年の春、舘山の所有者が一人三十円の入山料を徴収し始めた。これは観光客には不評で、観光協会と遠鉄などは地主と交渉し、観光客からは入山料は取らないことになった(『静岡新聞』昭和三十年三月二十五日付)が、観光協会で数年間肩代わりしていたという。三十年十一月一日には浜名湖が国鉄周遊指定地に指定され、一割引きの周遊券を使って浜名湖を訪れる観光客が増加した。全国から舘山寺に来る観光客は鷲津駅に下車し、鷲津港から浜名湖観光汽船で舘山寺港に来るか、浜松駅から遠鉄バスで舘山寺に来ていた。観光シーズンには舘山寺港での紙テープによる見送り風景が見られた。
【舘山寺温泉の開湯式 舘山寺温泉観光協会 舘山寺観光開発株式会社 舘山寺遊園地】
舘山寺の観光開発が本格化するのは昭和三十年ころで、その一つは温泉の掘削、もう一つは一大遊園地の建設であった。温泉の掘削は昭和三十二年から始まり十一月に泉源を掘り当て、翌三十三年九月二十五日に盛大な舘山寺温泉の開湯式が行われた。温泉はナトリウムが主で、胃腸病・神経痛・リウマチに効くと言われ、これで年間を通して観光客を呼べると喜びに沸いた。これにより舘山寺観光協会は舘山寺温泉観光協会と名称を変更した。温泉掘削は地元自治体、観光協会が主体となって進めたが、遊園地の開発は遠州鉄道が主体となり、昭和三十一年五月に舘山寺観光開発株式会社を設立、翌年から御陣山一帯の土地買収を始め、同三十四年七月十八日に舘山寺遊園地を開園した。以後、館山寺一帯の観光開発は急速に進んでいった。
図3-67 舘山寺温泉の開湯式
このころ舘山寺に来る観光客の七割は中京以西であったというが、昭和三十二年十月に準急の東海号が運転を始め、浜松は東京からの日帰り圏内に入り、関東方面からの観光客も徐々に増え始めた。