[佐久間ダム見学と観光バス]

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【佐久間ダム ダム見学者の団体募集】
 観光面で浜名湖と並んで注目を浴びたものが佐久間ダムであった。昭和二十八年四月に着工された佐久間ダムは今まで日本人が見たこともないアメリカ製の大型土木機械を駆使して建設され、日本のダム工法を一新した画期的なものであった。このことが報道されると全国各地からダム工事の様子を見学に来る人たちが、豊橋からは飯田線で、浜松からは遠鉄電車と国鉄バスで佐久間に向かった。見学者は昭和二十九年ごろから増え始め、同年一月から八月までの見学者は三万六千人を超えた。見学者はダムが昭和三十一年十月に完成してからも増え、同三十二年から三十三年にかけてがピークであった。遠鉄ではこの間ダム見学者の団体募集を行い、貸切バス部門が大きく発展した(第六節交通第五項参照)。
 
【初詣り講 工業観光地】
 貸切バス旅行の発展には佐久間ダム建設のような外的な要因のみでなく、会社内部で発案した〝初詣り講〟と呼ばれるものがあった。これは可睡斎や法多山などに初詣でに行く人たちを募集し観光バスで回るもので、お土産や福引まで付いていた。これが始まったのは昭和二十七年、この後、行き先を豊川稲荷とし、昭和三十四年一月の初詣りでは三十数台の貸切バスを連ねて豊川まで出掛けたという(『遠州鉄道40年史』)。また、従来は団体旅行というと温泉地や景勝地に行くものと思われていたが、昭和三十年代前半から国鉄浜松工場、日本楽器、紡績や織物工場、航空自衛隊浜松基地などを見学する婦人会、青年団、消防団などが増え、『静岡新聞』昭和三十二年十月三日付は「最近の浜松市は工業観光地になりつつある。」と報じている。これは浜松市が各方面への宣伝を行っただけでなく、佐久間ダム見学に現れたように、人々の関心が最新の技術や産業に向いて来たことと関連があると思われる。また、このころの新婚旅行先は伊豆を中心とした温泉郷に人気があった(『遠州新聞』昭和三十年三月十二日付)。