[近郊の行楽地]

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【佐鳴湖 漁場 貸ボート屋 佐鳴湖花火大会 飛び込み台 入野漁業協同組合 佐鳴湖開放促進会】
 佐鳴湖は市街地に近接し、昭和三十年代初めまでは湖底が水面からも見えるほどで、フナ・ワカサギ・イナ・ボラ・ウナギ・コイなど多くの種類の魚や蜆採りの漁場でもあった。また、湖岸北東部の小藪と南西部の入野村臨江山(北脇)には佐鳴湖に観光に来る人たちのための貸ボート屋があった。朝鮮特需で入野村の機業地は一気に勢いを取り戻すと、佐鳴湖は付近の織屋さんに働く多くの女工さんたちの休日の憩い場となった。入野村の機業家が主体となって昭和二十七年から佐鳴湖花火大会が開催されるようになった。神久呂村志都呂の人たちは家にあった浜名湖での藻取り用の小舟を漕いで佐鳴湖まで来て、この花火大会を見たという(志都呂町・柴田重義)。佐鳴湖の湖底は入野寄りは泥で泳ぐのには不向きであったが、小藪付近はきれいな砂利で湧水も出ていて、飛び込み台もあり泳ぐのには適していた(舞阪町・中野喜久司)。佐鳴湖は戦中・戦後の極端な食糧不足のころ、大勢の人たちが魚釣りに来ていた。ただ、佐鳴湖の漁業権は入野漁業協同組合が一手に握っていたので、組合は釣りをする人たちから高額の入漁料を取っていた。これは釣り人には不評で、多くの釣り人や釣具店の代表者は昭和三十四年三月に佐鳴湖開放促進会を結成した。この会の顧問には市の幹部や市議、県議、観光関係の人々を迎えて、佐鳴湖の開放運動を繰り広げていった(『浜松民報』昭和三十四年三月六日付)。この結果、翌三十五年一月一日から佐鳴湖での竿釣りは無料となることとなり、これ以後佐鳴湖は多くの人たちが気軽に釣りに来られるようになった(『静岡新聞』昭和三十四年十二月二十九日付)。
 
【都田川ハイキングコース サンドスキー】
 昭和三十年三月に浜松市へ合併した都田地区には都田川の渓流や滝などを巡るハイキングコースが作られ、また、市内唯一の都田発電所や鍾乳洞を訪れる市民が増えた。昭和三十一年ごろには中田島でサンドスキーを楽しむ人々も出てきた。