[娯楽と庶民の生活]

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【パチンコ店 鶴田浩二】
 昭和二十年代後半から三十年代前半の浜松の庶民の娯楽は映画・パチンコ・競艇・オートレースなどであった。昭和二十六年の浜松のパチンコ店は百五十軒余、市内と浜名郡を合わせても総台数は二千台であった。それが同二十九年ごろには約六十軒と激減したものの、台数は一万台を突破するまでになった。これは中小のパチンコ業者が淘汰され、二百台以上を持つ大型店が増えたことを示している。最大は不二屋パチンコ店の三百六十五台で、三百台以上が数軒、そのほとんどは旭町・板屋町・田町・鍛冶町などの駅前や中心街にあった。映画も昭和三十年代前半がブームであったが、詳しくは第九節文化 第五項を参照されたい。このころ浜松出身の映画スターと言えば鶴田浩二(本名=小野栄一)であった。学徒出陣で海軍の航空隊に入ったが、終戦後は浜松に戻り、一時は浜松駅に着いた映画のフィルムを映画館に配達していたという。昭和二十三年に高田浩吉や大曽根辰夫監督の尽力で松竹に入り、芸名を鶴田浩二と名乗り、以後俳優として本格的なデビューを果たした。
 
【七五三 生活改善推進協議会】
 戦後の復興が終わり、庶民の生活水準が向上してくると、七五三の行事もやや派手になってきた。昭和二十八年十一月、五社・八幡・秋葉など市内の各神社は七五三を祝う親子連れでにぎわい、女児は華やかな和服が七割、洋服が三割で、男児は祝い着や普段服、背広が多く見られた(『新編史料編五』 七社会 史料112)。この背景には朝鮮特需で息を吹き返した商工業界あげての消費拡大、購買意欲を喚起する動きがあったと考えられる。これと対照的なものに、昭和三十一年、浜松市都田地区では生活改善推進協議会(自治会・婦人会・青年会・公民館の代表者により構成)が「男女とも七歳のとき学童服で、従前は神社へ行ったのを公民館でお祝いの会をひらくよう改め、農村地方に根強く残る習俗の三つと九つの大々的な祝いは廃止する」といった方針を実行しつつあった(『遠州新聞』昭和三十一年十一月十四日付)。この動きの背景には行政と婦人会や青年会で取り組んできた冗費節減と生活改善を組み込んだ新生活運動があった(第二項参照)。この時期、これら二つの潮流がせめぎ合っていたが、次第に高度成長による生活水準の向上によって派手になっていき、統制が効かなくなっていった。昭和三十年代前半はこのような統制が効いた最後の段階であった。