[自然の遊び場の減少]

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【浜松子供を守る会 浜松市PTA連絡協議会 テレビの普及 紙芝居屋】
 地域の森、林、原野、また、神社や寺院の境内は子どもたちにとって格好の遊び場であった。「昭和三十五年ころまでは実によく遊んだのである。神社にはお堂があり、木立ちがあり、広くて高低があって夏は子供達の格好の遊び場だった。(中略)木のぼり、かくれんぼ、鬼ごっこ、陣とり、巡査どろぼう、宝捜し、砂遊び、まゝごと、虫とりなど腕白小僧も女の子もよく集まる場所だったのである。」(『わがまち文化誌 佐鳴湖のあるまち』)。このようなことは市内各地でも見られた。昭和三十二年二月、「カバンをわきに豆力士 女児も混じって〝ハッケヨイ〟」という見出しの新聞記事が出た。学校帰りの子どもたちが鴨江観音の境内で相撲をとっていたのを記事と写真で報道したのである(『静岡新聞』昭和三十二年二月七日付)。ところがこれ以降、市内中心部の神社や寺院の境内では遊びにくくなった。それは神社や寺院の境内の一部に官庁や会社などの寮が建ったり、駐車場となり始めたのである。これに対して浜松子供を守る会や浜松市PTA連絡協議会は子どもたちの遊び場の確保を各方面に呼び掛けていった。神社や寺院の境内から子どもたちを遠ざけたのは、これらの要因のほかに、昭和三十三年の後半あたりから急速に普及したテレビがあった。テレビの普及は町や村の辻にやって来て子どもたちを喜ばせた紙芝居屋の姿も消していった。