浜松赤十字病院

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 昭和二十七年八月十四日、改めて制定された日本赤十字社法に基づく特殊法人日本赤十字社は、「赤十字に関する諸条約及び赤十字国際会議において決議された諸原則の精神にのつとり、赤十字の理想とする人道的任務を達成すること」を目的とするものである。この理念を実践することが国際社会、地域社会における医療事業であり、災害時の救済活動として現れる。これこそ昭和二十二年、明治期に陸海軍大臣の監督下に置かれた軍事的性格を否定克服した新しい日本赤十字社の性格である。
 先の第二章では、疎開せずに医療活動の継続を決断した山田鉄三郎院長の指揮下、戦時中の救護活動を経て、引き続き敗戦の廃墟の中でなされた浜松赤十字病院の救護活動の一斑について記述した。
 
【結核病棟 総合病院整形外科 多田実 加藤允】
 昭和二十六年三月、結核予防法改正に基づく病棟建設が進み、また、結核の化学療法が開発されたことにより、新築完成した東病棟を一般病棟と区別する結核病棟を二階に設営することになり、翌年七月より一般病床六十九床、結核病床三十六床とした。同二十七年には静岡銀行の結核委託病棟を受託したことにより二百六十万円の資金を受け、病院の南隣地を購入して病棟を建設し、結核病床を八床増して四十四床とした。同年結核予防法に基づく補助金により、病院西隣地を購入し別館を建て、同二十八年四月には結核病床九十四床とし、一般病床は六十九床を維持し、計百六十三床となった。同二十九年には結核患者の増加により第二別館を建設し、計二百三床としている。同三十一年には厚生年金融資を受けて第三病棟を建設し、一般病床六十一床、結核病床百六十五床、計二百二十六床としている。しかし、同三十三年になると結核患者が減少し一般患者が増加したので、一般病床百三十五床、結核病床九十一床としている。これによって浜松赤十字病院は、同年九月一日から総合病院となった。次いで昭和三十六年には皮膚泌尿器科の新設があり、翌三十七年には外科から独立した整形外科が、多田実、加藤允によって新しい診療科目として標榜された。これが市内における総合病院での整形外科設立の最初である。右の昭和三十六・三十七両年で三百四十五床に増加した。なお、同三十四年六月には航空自衛隊浜松北基地のジェット機騒音防止の補償工事の対象に入り、病舎の調査が行われた。
 他方、社会的活動としては、昭和三十年八月の日本と中国との二国間の引き揚げ救護活動に従事している。また、同三十三年の狩野川台風による伊豆地方の大風水害に救護班が出動しているし、翌三十四年の掛川市日坂地区、浜北町、豊岡村の豪雨水害に際して救護活動がなされている。