遠州病院

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 市民は慣行によって遠州病院と言うが、これは昭和三十四年十一月の時点までの名称であって、これ以後は総合病院の認可を受けたことにより正式には遠州総合病院という。すなわち、市域中央部にあって、名実共に市民生活の重要な位置を占めたことを意味しよう。しかしここでは時間的にはそれ以前の経過を述べることになるので、遠州病院という名称を使うことにする。
 病院経営の観点から見ると、遠州病院の歩みは必ずしも順調ではなかった。確かに『新編史料編五』の八医療 史料9で見るように昭和二十五年には病院本館(二階建・四百四十九坪)が完成し、翌二十六年には結核予防法三十六条第一項に基づく結核医療機関に指定され、同三十年四月には病棟(四階建・五百三十五坪、百四十床)が完成し、『静岡新聞』紙上では「超モダンな病舎」と報じられている。しかし、翌三十一年五月二十三日の報道によれば、県は厚生農協連に再建整備資金五百万円の融資を行い、厚生連自体もその傘下の静岡厚生病院だけを残し、清水厚生病院、遠州病院、共生病院(湖西町)、周智病院(森町)を県あるいは地元の農協や国保団体に移管するという整備大綱を決定した。
 厚生連傘下の病院とは、「かつては農村医療の貧困と農村経済の不況下医療費の軽減を目指し農民自らの手で農協の病院」を誕生させたものであったが、今や厚生連による病院経営が赤字を招いているという。その原因には農協組合員の共同施設という認識が減退し、都市化が進んで農民よりは一般利用者が増大し、医療の進歩に伴う資金投下が必要であり、また医師確保の困難さや「保険制度の未発達」という諸点から経営困難に陥ったと分析され、「農協の視野に立たず公共機関としての新使命」が期待されている。
 厚生連による整備大綱では、遠州病院の場合は「県西部地区基幹病院として整備の上、県へ移管」案が出されているものの、「遠州病院の県移管は負債を抱えているだけに難点がある。地元浜松市立病院としての移管案も当然生じてこよう」という観測記事が付けられている。
 ところが『静岡新聞』昭和三十三年六月二十三日付では、新たな局面が見られた。県衛生部が遠州病院の県立病院化を強力に推進しているというのである。その理由は「経営内容も黒字(年間二千万円)であり、県としては県立病院にすれば全額起債で整備出来るので、その実現を推進することになつたもの」という。しかし、この後三十四年六月には自力再建を果たすことが出来た(『静岡県農協三十年史』)。
 なお、昭和三十四年六月、日赤と同様に航空自衛隊浜松北基地のジェット機騒音の補償工事の対象になり、整備されることになった。同三十七年六月時点の病床数は二百九十七床という(『広報はままつ』)。