[社会保険浜松診療所]

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 先に第二章で『浜松市戦災史資料』四に基づいて罹災した医療機関を見たとき、常盤町の浜松保健出張所一階に設営されていた診察室について述べたが、『浜松市医師会史』の「社会保険浜松病院」の戦後の沿革についての記事によると、昭和二十三年十月、常盤町の浜松社会保険出張所庁舎内に診療所が復活した。地域の健康保険適用事業所等の要望と、健康保険制度の普及を図る国家方針に基づくもので、財団法人社会保険協会が経営する診療所として発足している。診療所の土地・建物は国有であり、その経営は民間が委託されて行うものである。しかし、経営主体にはたびたびの移管があり、昭和二十八年四月には財団法人静岡県社会保険協会、同三十三年九月には社団法人全国社会保険協会連合会が行っている。
 
【結核診療 社会保険浜松病院】
 これより前、昭和二十六年三月三十一日の結核予防法改正に基づく国の結核対策の一翼を担い、同二十八年にはほかの市内の大病院と同様に、結核診療も行うことになった。同三十一年一月三十日付『静岡新聞』には、「社会保険浜松診療所は昭和廿九年厚生省予算により現在の浜松市中島町に新築移転したが、利用者が非常に多いので明年度予算において施設の拡充と病床の増加をはかり、病院に昇格させよう」という市長・市議会議長・商工会議所会頭らが厚生省に陳情書を提出したとある。昭和三十年四月には現在地に診療所を新築移転、外科を増設、翌三十一年六月には診療所から病院に昇格し、名称は浜松社会保険病院となった(後に同五十三年四月、社会保険浜松病院と改称した)。同病院の病床数は二十八床であったが、昭和三十五年には八十三床(一般五十三床・結核三十床)と増床している。その後は健康保険受診者数が増加したことにより、診療科目の増設や病舎の建設がなされた。平成八年時点では十七診療科目、二百二十二床となっている(『浜松市医師会史』)。