【市民病院】
浜松市民の戦後以来の念願は名実備わった市立総合病院の設立であった。浜松市長は公約によって調査費を昭和二十八年予算に組み込み、市議会でも特別委員会を設置し建設することを決定している。しかしながら当局と浜松市医師会の考え方には落差があった。市民病院設立問題は大正四年設立(『新編史料編三』 八医療 史料5「浜松伝染病院の開院」)以来の伝染病舎ゆえに老朽化が進行し、その再建が必至となっており、他方、市町村合併に伴う伝染病患者の収容能力を超えるという問題が絡んでいる。この機会をとらえて伝染病院を拡充して市民総合病院化案も浮上している。そのような市民の動向の一つとして、昭和二十九年二月二十二日付『静岡新聞』によれば、馬込川以東(江東地区二十三町)の自治会から市民病院建設を江東地区へ誘致するという陳情四カ条が市議会に出されるに至ったと報じている。
他方、設立場所に関しては昭和三十一年七月三十日付と十一月九日付の『静岡新聞』には、市立病院とは名ばかりで実質は隔離病院、日赤は市の北隅で不便、遠州病院は赤字経営、国立は高台三方原にあるとして、中央部居住の市民は大病院の恩恵に浴していないと言い、市内中央部に近代的な総合病院の設立を望んでいると報じた。その上で現実的な妥協案として遠州病院買収による市立病院転用案が論じられたが、市医師会との関連から実現しなかったという。その後、昭和三十三年一月になると、浜松市では三十三年度予算に市立総合病院の建設調査費二十万円を計上したと報じ、和合町の国立病院払い下げ運動案が浮上している。しかし、国立病院職員は全国立医療労働組合副委員長を伴い、移管反対五カ条を申し入れている(昭和三十三年二月二十日付『静岡新聞』)。このように新聞記事の論拠となった市当局や医療関係者の表明には紆余曲折があったことが推測されよう。昭和三十四年九月二十一日付の報道によると、市医師会側に病院建設の議論が高まったという。その論点は「市が主体となつて市立病院を建設し、医師会に広く利用させるかあるいは医師会が主体になつて建設するか今後なお幾多の問題を含んでいる」と記している。これが最終的には医師会中央病院の開院(『広報はままつ』昭和三十七年六月二十日号)に連続し、さらに四十八年四月の県西部浜松医療センター開院へと収斂(しゅうれん)することになる問題である。