[結核回復者のその後]

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【結核予防法には生活援助の観点が欠落】
 浜松市は昭和二十六年度から五カ年計画で結核患者半減運動を企画し、市立病院に結核療養所を設立したり、児童生徒の健康診断に尽力している。他方、国鉄の結核集団検診(『静岡新聞』昭和二十六年一月二十三日付)をはじめ、各企業の取り組みも進み、市内の各病院も結核患者収容の病床を増床させていることは先に見た通りである。しかし、他方では浜松市が結核予防モデル都市に指定されていながら、それは浜松市長を委員長に浜松保健所長らを副委員長とする「名ばかりの対策委員会があるのみ」という批判もある(『静岡新聞』昭和二十八年一月十八日付)。そのために結核回復者や自宅療養者等は会を結成している。注目される点は会の結成に当たって、右の対策委員会の市長や保健所長の協力を得ていることである。その目的は生活相談や相互親睦を図り、結核に関する啓蒙活動、ベッド増設、保護施設の充実、社会保障制度の拡充を願うものである。特に生活相談については深刻な問題を抱えている。つまり結核予防法には生活援助の観点は欠落しており、生活保護法の医療扶助に頼らざるを得ないということである。昭和二十九年八月十九日付の『静岡新聞』によれば、西遠福祉事務所により同年七月中の生活保護法による「生活・住宅・教育・医療」の保護状況が紹介されている。生活扶助は人数(九百十六世帯・三千二百四十人)から見ると圧倒的に多いが、医療扶助は入院と入院外の人数(六百二人)に対して四百八十九万六千円というように圧倒的に多い金額である。医療扶助の対象者のうち六割が結核で占められているという。限定されたベッド数の下で、入退院患者の選別、自宅療養者の病状との関係、生活保護法の適用可否の判断など、すべて経済的支援問題と絡み合って、福祉事務所側においても困難な問題を抱えていることが指摘されている。
 このような社会状況を背景に、右の浜松結核回復者自宅療養者の会は、昭和三十年二月十二日付『静岡新聞』によると、二月二十七日に行われる総選挙第三区立候補者に対して、結核対策についてのアンケート調査を行ったという。質問の主旨は、1発病と同時に入院可能な施設充実、2経済的援助、3社会復帰、4ベッド不足を補う自宅療養者への隔離施設費と食費補助、5生活保護費の増額等である。候補者の回答について、会員と患者家族の「票を狙い相当眉ツバものの回答もあると予想されている」と辛辣(しんらつ)に結んでいる。
 他方、「アフターケヤ施設 聖隷保養農園(ママ)ではげむ患者達」の標題で『静岡新聞』(昭和三十年十二月二十日付)には、二百五十人の結核患者が七人の医師、五十五人の看護婦の下に療養生活を送り、社会復帰の準備のために時計修理・孔版印刷・農耕・染色・洋裁等、指導員から職業補導を受けていることを報じている。
 結核のアフターケアから始まり医療対応を柱にした福祉事業の様々な分野を開拓しているが、国立のアフターケア施設には天竜荘があるのみで、聖隷保養園(長谷川保理事長)は昭和二十九年に百二十余万円を投じて施設を建設し、同三十年にはさらに同二十九年度の「お年玉年賀ハガキによつて百万円の補助を得て一棟を建設」した「民間療養所としては県下初の施設」である。しかし、この施設を運営するに当たり「社会福祉制度にも欠陥があつて入所したくも入所出来ない状態の人の多くあることは誠に遺憾なこと」という認識は、信仰心に基づく社会的想像力が支えていると思われる。

図3-68 聖隷更生園