[結核患者・死亡者の減少と医療機関の転進]

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 浜松市衛生課では昭和二十六年以来、五カ年計画の結核予防対策を遂行してきたが、市内の学童生徒のみならず、保育・幼稚園児の結核検診を行っている。同二十九年十一月十九日付『静岡新聞』の記事では、その十七日に総括した罹患者の中に三名の保育児がおり、さらに旧市内の小学校二十二校、中学校八校の約一万六千名についてツベルクリン検査、レントゲン撮影による結果では、小学校(二百六十三名)、中学校(百三十一名)の要注意者があり、開放性の罹患者もいた。特に南部中学校・中部中学校・元城小学校では兄弟の感染者がいることを指摘している。
 
【結核予防運動】
 開放性罹患者のための簡易療養舎(国庫補助の対象)が県下で百戸の割り当てがあり、浜松保健所はその内の十戸(無料)を確保している。浜名町一、笠井二、中ノ町一、積志村一、赤佐村一、伊佐見村一、雄踏町一、佐藤町一などの取り付けが決定されたことを伝えている(『静岡新聞』昭和三十一年二月十七日付)。また、結核予防対策上の啓蒙運動の一つとして、三十四年七月三十日に県結核予防婦人会が設置され、各保健所ごとに支部を設けることになった(『静岡新聞』昭和三十四年九月十七日付)。浜松保健所・浜松北保健所管内でも支部結成準備会を経て、十月八日、県結核予防婦人会の浜松・浜北支部創立総会が開かれた。各種の婦人団体の協力による結核予防運動である。
 
【結核予防対策】
 結核予防法による化学療法の公費負担の普及につれて、また、このような結核予防対策が徐々に功を奏していることとして、先には昭和二十八年三月九日付『静岡新聞』に浜松保健所管内の結核死亡率が低下したことを報じ(昭和二十五年度・五百四十三名、二十六年度・四百二十三名、二十七年度・二百八十七名)、県下最低という。ただ罹患死亡者の職業別では、農業(男子)の比率が高いという。
 次いで『広報はままつ』昭和三十六年十月五日号では、「結核による死亡者数は年々減少し、一方結核の治療法はどんどん進歩して結核は今や治しうる病気になりました。しかし結核という病気の本質は少しも変つておらず今でも伝染病」であることを喚起している。同時に「死亡数が減つた割り合いに患者数は減つていません」と警告し、早期発見・早期治療の効果を強調した。
 
【成人病】
 このような結核患者が減少したことは、直ちに病院の診療形態にも影響を与えた。すなわち、従来結核だけを扱ってきた病院・診療所が他科も診療するようになり、結核治療のみを標榜する結核療養所は無くなったのである(土屋前掲書、五四九頁)。ちなみに浜松赤十字病院は昭和三十三年九月一日付で、結核患者の減少と一般患者の増加により、一般百三十五床・結核九十一床の用途変更を行い、総合病院となっている(昭和三十一年には、一般六十一床・結核百六十五床)。また、昭和三十年代の聖隷病院(三方原)でも結核サナトリウムから地域住民の要望を担い一般病院へと転換させている(『浜松市医師会史』六四六、六五〇頁)。その場合の診療科目としては成人病対策が注目されてくる。厚生省は昭和三十四年二月一日から七日までを成人病予防週間に設定した(『広報はままつ』昭和三十四年二月五日号)。
 
【疾病構造の変化】
 他方、昭和五十年代には長谷川保(聖隷三方原病院)は疾病構造の変化を認識し、心臓病をはじめとする成人病対策としてのプライマリーケアを練り、さらにガン死亡の増加を前に、人間の尊厳死を迎える施設としてのホスピス建設へと進んでいくのである。まさに結核治療から総合病院へ変貌し、時代を読んださらなる先鋭的な転進と言えよう。