[減少しない伝染病]

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 戦後の社会的混乱期に猛威を振るった伝染病は依然として市民生活を脅かしている。『広報はままつ』には頻繁に伝染病の予防を喚起する記事があふれ、市民参加の大掃除施行を呼び掛ける記事が見える。
 
【伝染病】
 医薬の進歩、衛生行政の深化が図られて、細菌感染による伝染病は徐々にではあるが患者発生も死亡者も減少するのであるが、撲滅には至っていない。
 右の表れが『静岡新聞』や『広報はままつ』での様々な記事となる。昭和二十八年十月二十日付『静岡新聞』では赤痢が長上村に蔓延し、村の機能が麻痺したことを報じた。そして、昭和二十九年八月七日付には浜松保健所が続発する赤痢の集団化防疫対策として企業や集落に、検病調査班、便所・井戸・炊事場・食堂等の消毒班、昆虫駆除・薬剤散布の清掃班を結成するように指導した記事が出ている。詰まるところは衛生知識の向上を図っている。さらに浜松保健所は越冬赤痢保菌検査を徹底化させている(昭和三十年十二月十一日付記事)。
 
【ハシカ 日本脳炎衛生課 啓蒙運動】
 昭和二十八年四月三日付、同三十年三月十二日付、同三十二年四月十八日付の記事では、ハシカで死者が出たこと、「幼児にハシカが流行」していることを報じている。また、市内萩丘・葵の高台地区で幼稚園児等のジフテリアの集団発生を伝え(昭和二十九年十一月二十一日付、同三十年四月十四日付記事)、日本脳炎の流行について、「廿八年九名、廿九年十五名、卅年廿六名、卅一年五十七名と年々増加」(昭和三十二年七月二十一日付記事)していることから、市衛生課は映画会・座談会等を通じて啓蒙運動を行い、日本脳炎ワクチンの予防注射を受けるように呼び掛け、蚊の撲滅運動を展開させ、新川に積志村欠下から馬込川の清流を取り込み、ボウフラ発生を防止しているという。昭和三十二年八月二十三日付記事の時点では予防注射が奏功して予防注射を受けた者からは発生せず、発病者十六名のうち死亡者四名で「昨年同期に比べ発生率は三分の一」に下がったという。しかしながら、昭和三十四年八月三十一日付記事では、二十七名が発病し五名が死亡し、昭和三十三年の十八名の発症・二名の死亡に比して二倍以上になっていることを報じている。
 このような伝染病の発生に対して、第二章第三項で見たように昭和二十八年七月三十日に、六カ町村(舞阪町・雄踏町・可美村・篠原村・入野村・神久呂村)は組合立伝染病院の認可申請を提出した。翌二十九年夏、近代的な湖東伝染病院を建設した。また、市域拡大もあって、合併町村の「閉鎖した避病舎使用」(昭和三十年八月十二日付記事)が図られ、三方原・中野町に患者を分散して収容している。
 他方、『広報はままつ』ではハエや蚊が媒介する赤痢・チフス・日本脳炎を防ぐための春の大掃除キャンペーンとねずみ捕りコンクール記事が注目される。また、DDT油剤と粉剤、BHC油剤と粉剤、乳剤(オルソ剤)という防疫薬剤の使用法と注意事項は丁寧である(昭和三十三年五月二十日号)。とりわけ赤痢については詳細な啓蒙記事があり、例年の予防接種の種別日程表が連載されている。
 幼児のジフテリア予防注射は三回受けなくては効果が表れないところから、年間を通して何度もキャンペーンが張られている。百日咳の予防接種は十一月から翌一月にかけて掲載され、「日脳の予防接種」は四月、「腸・パラ予防接種」は七月・八月である。もっとも、市民からは農村部の予防接種は農閑期に実施してほしいとの要望が寄せられている。衛生課は、市域の拡大もあって一部地域では農繁期にかかるが、趣旨に沿いたいと回答している(昭和三十三年四月五日号)。