【トラホーム】
戦前では徴兵検査においてトラホーム検査は必須の項目であり、国防・産業・教育における問題として帝国議会で審議されている(大正八年三月、トラホーム予防法成立)。教育分野で言えば明治三十一年一月の勅令によって公立学校に学校医を置く制度が確立し、後にはトラホーム治療の助手として学校看護婦も登場するように、学校教育の現場でトラホーム治療の徹底指導がなされている(土屋前掲書)。その昭和十年時点の実態は、『新編史料編四』で白脇尋常高等小学校訓導が執筆する「トラホーム治療」(八医療 史料1)の記事で詳細に述べられている。戦後に至っても市民の住居・栄養・衛生に関する生活環境の劣悪な状況から、トラホームの病勢は変わらなかった。特に昭和二十九年七月一日付で隣接四カ村と合併するにあたり、農村部に患者が多いところから、臨時市議会において昭和二十九年六月、市内東部・西部・北部の利便を図り、トラホーム専門の市立診療所を福地町・名残町・吉野の須之木沢に設立する件が承認されている(『静岡新聞』昭和二十九年六月二十八日付)。
【三方原開拓地のトラホーム】
『静岡新聞』昭和三十一年七月二十八日付の記事では、三方原開拓地のトラホームの状況と治療が報道されている。都田小学校南分校児童の場合、百二十名中九十名が罹患し、住民七百六十九名中二百八十四名が罹患していた。原因は水利状況の不便さにあると考えられ、手術を施行したという。また同三十一年八月三十日付の記事では、同地区で七月と八月に六回の検査を終了させている。同校児童の罹患率六十八%、住民の罹患率三十七%であった。なお、患者の治療負担は一人一カ月百円であるという。
『かいたく』(浜松市立都田南小学校独立十五周年記念文集、昭和五十一年三月刊)では、雨水を消毒して飲料水とし、生活用水に使うという、天水頼みの生活ゆえに、トラホーム治癒率は低かったと記録している。
なおまた、『静岡新聞』昭和三十三年七月八日付記事では、市衛生課は七月六日に都田町一帯で一斉検査を実施したところ、トラホームや結膜炎が蔓延し、新入学児童八十%が眼疾にかかっていることが判明したので、看護婦二名を季節診療所に常駐させることにしたという。