[栄養士養成]

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 戦後の保健所は戦前の警察衛生業務から独立し、昭和二十二年九月、新保健所法の公布とともに、国民生活における疾病予防・公衆衛生・食品衛生・栄養指導など様々な行政上の任務を担当した。しかも厚生省―県衛生部―保健所の行政機構の位置付けを有していた。他方、国民の体位向上のために栄養指導と啓蒙活動を目的に昭和二十二年には栄養士法が成立し、さらに同二十七年には栄養改善法が成立した。栄養改善法では毎年の国民栄養調査・栄養相談等の実施、栄養指導員、集団給食施設の栄養管理、特殊栄養食品の標示などを規定している。
 
【栄養士 静岡女子短期大学 食物栄養学科】
 この法令改正に伴う集団給食施設への栄養士常駐問題は浜松保健所の重要課題となったことが、『静岡新聞』(昭和二十七年八月十八日付)で報じられている。管内の集団給食施設には常駐栄養士の絶対数が不足していた。このような矛盾を背景に県婦人団体連絡会は、県立静岡女子短期大学(静岡市北安東)に栄養学科の新設を求めている(『静岡新聞』昭和二十八年一月十二日付)。栄養改善法に基づき厚生大臣の指定する養成施設が本県には皆無という理由である。この運動が実り、昭和三十二年度から県立静岡女子短期大学に教職課程と栄養士課程を新設した。なお、県は静岡市谷田に県立女子大学の新設に伴い、右の県立静岡女子短期大学を浜松市布橋三丁目に移転した。戦後、静岡第二師範学校跡に設立された静岡大学教育学部浜松分校は昭和四十年三月限りで廃止され、静岡市大谷に統合されることになった。この後、静岡大学教養部西部教場が出来たが、浜松の高等教育機関の弱体化を恐れた市民感情を背景に、平山博三市長は国有地と県・市有地の交換を含めて、浜松師範学校以来の大樹が茂る地に、右の県立静岡女子短期大学の招致に成功し、昭和四十一年四月十二日開学した。ただし、移設の際には文学科のみで栄養学科は消滅していた。浜松の県立静岡女子短期大学に食物栄養学科が新設復活するのは昭和四十六年四月、その入学生六十七人を迎えた時である。これにより、静岡から岡崎までの間、栄養士養成課程を持つ専門機関が無かったことが解消されたとして歓迎されたのである。