[新生の浜松市医師会]

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 医師の身分確立と業務に関する法律は明治三十九年(一九〇六)の医師法によって初めて明文化され、医師の団体としての医師会に法的根拠を与え、その任意設立を規定している。大正八年の医師法改正と医師会令により、医師会の強制設立と、開業医のみならず病院勤務医も強制加入となった。さらに大正十二年の医師法改正で日本医師会が成立した。昭和十七年に国民医療法が公布された。これは戦時統制的性格を有し、すべての医師を道府県医師会に強制的に加入せしめ、日本医師会も強制設立団体とした。これにより、戦前には静岡県医師会浜松市支部が成立する。
 
【浜松市医師会】
 昭和二十年日本医師会はGHQによる解体命令により同二十二年に解散し、民法による社団法人として再出発する。社団法人浜松市医師会の設立である(昭和二十二年十一月十日付、静岡県知事認可)。
 右の新生の浜松市医師会が直面する課題は四項目である。すなわち、『浜松市医師会史』における各医師会長時代別の記述のうち、「明治より新生医師会まで」の記事において、明治期を前期、大正と昭和の戦前を中期、昭和の戦後を後期とする時代区分を置き、この後期で左の四項目を詳述している。筆者は内田智康(『浜松市医師会史』編集委員長・昭和四十八年四月から同五十五年三月までの医師会長)である。
 これによると、1、社団法人浜松市医師会設立、2、医師会館建設、3、看護婦養成事業、4、医師会病院という課題があった。
 昭和二十年十一月、戦後初の静岡県医師会浜松市支部常会が開かれ、同二十二年六月の同会の臨時常会において新生医師会設立委員会(委員長・岡部慎爾)を発足させ、設立総会を浜松市公会堂で開催した。同年八月には浜松市医師会第一回総会を浜松市公会堂で開き、岡部慎爾が会長に就任した。しかし、GHQの旧役員排除の指令により、岡部は辞任し、翌九月の臨時総会の選挙で松下稲覧が当選した。さらに松下の辞意が固く十二月の臨時総会で白井福松を選んだ。昭和二十三年三月の二十二年度定時総会では同二十三年度予算、顧問・参与推薦の人事案件が議決されている。同二十三年十一月の臨時総会で看護婦養成と医師会館建設の案件が可決された。