[遠江医学会]

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【遠江医学会 内田六郎 『遠江医学会五十年の歩み』】
 第二章の第八節第六項の関連でいうと、遠江医学会は昭和二十二年十二月十四日に復興第一回総会を開催し、同二十五年六月の復興第四回総会においては会則の改正を行い、「医師の補習教育並びに学術研究機関」として、小笠・周智・磐田・引佐・浜名の各郡、磐田市、浜松市の全医師をもって発足することになり、いわば「静岡県西部医学会」の性格を有することを述べた。同三十三年六月、内田六郎遠江医学会会長(産婦人科開業医、昭和二十八年六月から同三十六年五月まで四期八年の在任)の下で遠江医学会五十周年記念式典がもたれた。この内田会長の著作『遠江医学会五十年の歩み』は必見の資料である。
 
【稲留藤次郎 君野徹三 『還暦の遠江医学会』】
 昭和四十三年六月には稲留藤次郎会長の下で六十周年記念大会が挙行された。『浜松市医師会史』において「遠江医学会」を執筆した君野徹三によれば、医学の分野で専門化・細分化が始まり、専門知識尊重の風潮が生まれているので、遠江医学会のように全科を網羅した総合医学会の存在意義が疑問視されるようになった。しかし、ベテランの医師なら誰でも、人間全体を総合して診ることの重要性は知っており、稲留会長はこの点を強調したという。稲留会長はこの記念誌として『還暦の遠江医学会』を刊行している。なお、この式典で講演した武見太郎日本医師会長は地域医療と学会の連携を強調し、遠江医学会の歴史と偉業を讃えたという。
 
【平野多賀治 圭友会 谷口健康 抄読会奇松会】
 医療現場の専門化・細分化に対応する医師たちの勉強会は、右の「医師の補習教育」に相当するものとして、『浜松市医師会史』の各専門分野の医会の記事において研修会について言及されているが、会の名称を持つ例として、昭和三十年一月に平野多賀治(小児科医)が発議して浜松市医師会有志が集会した圭友会があり、外科では谷口健康が主宰した抄読会がある(昭和三十七年に両者は診療協議会へ統合)。産婦人科の場合は奇松会が昭和三十九年九月に第一回の発会があった。