[看護婦養成]

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 前述の四項目のうち、新生医師会結成は先述の年表的記述に代えるが、昭和二十四年の医師会館建設と同三十七年五月に落成式を迎え六月に開院した医師会病院に関しては『浜松市医師会史』に収められた「医師会館の建設について」、「医師会中央病院」、「県西部浜松医療センター」に記されているが、このうち後の二つは必見の資料であり、『浜松市史』五では大いに依拠するところである。ここでは看護婦養成について記す。
 
【馬淵一貫・貞司 浜松博愛看護婦学校 浜松市医師会附属准看護婦養成所】
 第二章では大正十四年に設立認可された馬淵一貫・貞司父子による浜松博愛看護婦学校について言及し、併せて戦後昭和二十三年十一月の浜松市医師会臨時総会で議決された看護婦養成案の乙種看護婦養成は再度練り直しを余儀なくされたことを述べた。同二十九年一月の医師会議決を経て、保健婦助産婦看護婦法の規定に基づいて看護婦養成所として認可され、同年四月、浜松市医師会附属准看護婦養成所の開所があり、入学生は三十四名であった。教室は紺屋町に新設された医師会館の一部を使用した。
 
【遠州病院付属乙種看護婦養成所 聖隷准看護婦養成所】
 昭和二十七年四月に遠州病院付属乙種看護婦養成所と聖隷准看護婦養成所が開校した。前者は、同三十七年五月に遠州総合病院付属准看護学院と改称した。同三十八年二月には国立浜松病院付属看護学校が開設され、同三十九年九月には静岡県立浜松高等看護学院が海老塚町の仮校舎に開校し、翌年に富塚町の新校舎に移った。さらに同四十七年四月には浜松市立高等学校に衛生看護科が設置された。『浜松市医師会史』所収年表(昭和四十九年四月)の記事によれば、「市内に従事する看護婦数一、一九五人、必要な看護婦数一、七三七人」とあって、看護婦の絶対数が不足しているので、かくも看護婦養成機関が族生することになる。なお以後においては医療現場の専門化に対応して、看護婦教育は准看護婦養成の課程から正看護婦養成の課程へ力点が置かれるようになる。高等教育化の方向にふさわしい校名改称が行われることになる。
 また、昭和四十三年五月には浜松産科看護学院が開設され、第一回の入学生は二十名であった。ここでは産科看護助手と産科看護婦の資格を取得できた。