後藤一夫

815 ~ 817 / 900ページ
 後藤一夫(本名=一雄)については、第二章第九節第一項において、個人誌『えご』の発行、同人誌『詩火』の発行を中心に、終戦直後の旺盛な文学活動を紹介した。彼の経歴については、『後藤一夫全詩集』巻末の年譜に詳しいが、その後の活動はますます盛んになっていったかの観がある。
 
【『餓鬼』】
 昭和二十七年には詩集『餓鬼』を刊行。これは菅沼五十一との共著。限定二百部、B5判本文六十頁。後藤の詩十三編、菅沼の詩十四編を収める。発行所は詩火社。題字相生垣貫二(相生垣瓜人の本名)。この集中に用いられた二葉の版画は山内泉の作品。この詩集で、後藤はほとんどの作品の各行末を揃える(当然行の初めは不揃い)という表記を試みている(菅沼も四編にこの方法を採用)。後年、彼は「詩は苦痛の瞼に舞う表現」(浜松文芸館主催の「詩人三人展」チラシ)と述べているように、マンネリを嫌った彼の実験的な試みであったと見られる。これは、『餓鬼』という詩集の命名の姿勢にも通ずるであろう。掲出の詩「光」は、後藤の作品である。

図3-69 『餓鬼』

 
  光
 
         のびあがる水銀のとつぱな
 政府のむすうの毛細管に火がいぶりはじめる
 
              しろい脂だろう
   赤いそんなしんのまわりにとけて落ちて
        みな落ちるよ じぶじぶして
             ぐずぐずぐずして
               わいわいして
 
       太陽の火はなんと原始的なんだ
         ああぴかぴかする白堊紀の
                   地平
   の上に生のチユーブからひねり出すふん
だめだ 山川草木にごめんなさいともいえない
 
 
【『オルゴール』 『おるごうる』】
 さて、後藤の幅広い創作活動の中で、詩と並んで重要な位置を占めるものに詩謡がある。これは、歌うことを前提に作られた大人向けの歌謡と、童謡の世界である。彼が童謡を書き始めたのは、自身のメモ(『後藤一夫全詩謡集』)によれば戦前のことであるが、戦後の詩謡の制作活動としては、まず昭和二十三年の歌謡集『茶の花』の刊行がある。これは限定二百部、変形でA5判よりやや大きく、本文二十六頁。冒頭に島崎藤村の『若菜集』の序にならって「あはれ、あはれ、ひとり弄ぶ小さい私の玩具よ」とあり、「すいつぱ」以下十四編の歌謡を収めている。発行所は詩火社。表紙は和紙を用いたしゃれた装丁である。童謡集『二つの歌』が出されたのは昭和二十七年。限定百部。枡形本。孔版印刷で本文七十一頁。扉の裏に「子よ、その手に花を」とある。作品は「雪そり」以下、月に二編ずつ、一月から十二月まで二十四編が並べられている。発行所は詩火社。月名には、各一頁ずつがあてられ、後藤の手になると思われるカットが添えられている。実に愛らしい絵でカットの傑作といってよい。昭和二十八年、彼は四十一歳でサトウハチローの門下生となり、サトウの童謡誌『木曜手帖』に作品を発表するようになる。彼を中心に、浜松において童謡誌『オルゴール』が発行されたのは、昭和三十年五月のことである。同人は、後藤のほか山下竹二・高橋俊雄・米田一夫の四人。発行所はオルゴール童謡の会。しかしこの雑誌も、二十八号を出して後次第に停滞気味となった。やがて後藤は、昭和三十四年八月、個人誌『おるごうる』を発刊することとなる。以上見てきたように、後藤の詩と詩謡の分野における活動には目覚ましいものがあった。なお、彼は浜松市によって発行されることとなった『浜松市民文芸』(昭和三十一年三月創刊)と『労苑』(同年四月創刊)の詩部門の審査員となり、二誌の発展に大きく貢献した。

図3-70 歌謡集『茶の花』