【『バアバルの楽器』 『巣』】
戦前から戦後にかけて、浜松地方の文学と文化の方面で浦和淳の果たした役割には大きなものがあった。しかし、彼が詩人として最も充実した活動を示したのは、戦前の昭和の初期であったと言うべきであろう。昭和六十年十月に彼が亡くなって後、翌年三月、『詩旗』77号は、特集として幾人かの彼への追悼文を掲載しているが、そのうちの一人田邊茂は、浦和について「現代詩の
一過渡期に出現したモダニズムの幻影にすがりついて、前進もなく後退もせず千篇一律の詩を綴って終った」と評している。これは、昭和の初期に西欧風の詩傾向に共鳴して、前衛的な詩を書いていた彼が、北園克衛や岩本修蔵らに認められ、その詩結社「アルクイユのクラブ」の一員に推薦されて、機関詩誌『マダム・ブランシュ』誌上に作品を発表し続け、以後、戦後においてもしばらくその前衛的な詩風を変えることがなかったことを指している。田邊の批評は、幾分浦和を過小評価している気配がなくもないが、正しいところをついているとも言い得る。浦和自身、自分の詩の限界については、自覚していたと思われる節がある。彼は昭和四十八年、詩集『バアバルの楽器』を刊行しているが、この詩集に戦後の作品は一切入れず、収められた五十編ほどの作品は、すべて北園や岩本らと活動していた昭和十年ごろの作品となっているのである。しかし、戦後の浜松地方において、いち早く詩活動を展開した後藤一夫を中心とする詩誌『詩火』を、菅沼五十一と共に支えたのは浦和であったし、また昭和二十七年には岡本廣司と共に詩誌『巣』を創刊するなど、昭和二十年代において、彼が詩活動について相当意欲的であったことは事実である。『巣』の創刊は昭和二十七年二月五日。B5判、表紙を含めて四頁のささやかな雑誌であった。編集後記の「巣の手帳」に記された浦和の言葉は控えめである。
もちろんこれを出すについて特別な意図や野心は持つていないが然し吾々が、からだの中に詩に対する多分の情熱を燃しているといふ事を伝える役目を果してくれゝば充分だと思つている。
詩誌『巣』は、この後同年四月に第二号、七月に第三号を出したのみで廃刊となった。創刊号掲載の浦和と岡本の作品を紹介しておく。
祈りについて
光を握り、宝石を握り、何ものとも知れぬ敬虔な知性の破片を握つた。おびただしい雲層が、はげしい風と共に次から次へ流れてゆく中で。
おそらく耳ぶた(ママ)を打たれたのはそのスピイドの故だつたのだらう。
抗ひ切れぬ大きな力に引きずられ、膠着されてゆく感覺、あたかも植物のやうな。
その人間らしくない位置、知覺をも感覺をも失ひ掛けている瞬間、孤立にかへる瞬間自然のさゝやきが、窃かな祈りを教えた。無の存在を敎えた。
浦和 淳
暗い繪
室の外はくらい冬の姿で一ぱいだ
きびしい季節をさえぎつて
どこの家の窓も
すでにかたく閉ざされた
支えきれないものだけが
この室のなかにくすぶつている
それは風の日の砂丘のように肌に触れる
よどんだ、しわの年月や
褐色の女の毛髪
綿のようにそれを捉えるわたし
明るさは何處えいつたのであろう
にぶい電燈の下によろめく
老父と
妻とわたしの
うごかない夜の像
岡本 廣司