【山脈詩話会 『絆』 『クレパスのにおい』】
詩人であり画家でありまた郷土史家でもあった米田一夫の詩人としての活動は、昭和二十五年、結核のために国立療養所天竜荘に入荘してからのようである。当時、天竜荘には同じ患者として高橋喜久晴が入荘していて、彼の指導の下に「山脈詩話会」があり、詩誌『山脈』を出していた。米田は、これに詩作品を寄せていたが、『山脈』は高橋の退荘とともに廃刊となった。その後、二十八年、米田が中心となって詩のグループを作り、二十九年二月「山脈」の名を踏襲した新しい『山脈』が創刊された。この年米田は退荘するが、このころの詩集が『絆』である。菅沼五十一は、米田の遺稿集(全作品集と見てよい)『クレパスのにおい』の跋の中で、「言葉がきれいで、よどみがなく、抵抗がかるく、詩集『絆』は詩人であり、画家である米田氏の審美眼が認識される。」と記している。「絆」一編を引いておく。
絆
久しぶりで子供に会ったので
甘えて もたれかかった
あいつの小さな重みや
しなやかな腕の力が
俺のからだに痣のように
しみついてしまって
それから暫くの間というもの
俺の首っ玉にしっかりまきついた
あいつの両腕を
俺は病院のベッドの中で
毎晩もてあましていた
米田は、その後も『詩火』、『浜松詩人』などに多くの詩を発表し、『浜松詩人』では毎号表紙絵を担当している。昭和三十六年、『鎖』を創刊。昭和四十年代には、埋火の会を結成して『埋火』を発行した。
童謡作家としては、昭和三十年五月、後藤一夫・高橋俊雄・山下竹二と共にオルゴール童謡の会を結成、童謡誌『オルゴール』を創刊した。同誌の第六号(昭和三十年十月)に掲載された、米田の「僕のつくった動物園」は、中田喜直によって曲が付けられ朝日放送「ABC子供の歌」として放送された。
米田が、郷土史に関心を抱くようになるのは、昭和五十年代のことである。
僕のつくった動物園
米田一夫
僕のつくった動物園
切りがみ細工の動物園
窓からそよ風ふきこめば
ぱくぱく動くよぞうの耳
僕のつくった動物園
小さな小さな動物園
しっぽでぶらんこ尾長ざる
白くま親子がほえている
僕のつくった動物園
だあれも見てない動物園
寝がけにそっとのぞいたら
小リスの目玉が光ってた